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 ブラジル日系移民の歴史について考えるとき、今の日本と在日外国人(特に、日本へ沢山来ている国の人たち)との関係を、考えずにはいられません。
 ブラジルへの移民は、1908年(明治41年)の笠戸丸に始まります。800名弱の移住者の内、自由移民は10名のみ。残りは皆、『契約移民』といわれる人たちで、沖縄県出身者が半数を占めていました(今もブラジル日系人の中では沖縄県がルーツの人たちが多く、アルゼンチンになると日系移民の80%が沖縄県ルーツの人たちだそうです)。
 そもそも日本人の海外への移民は、1868年(明治元年)には始まっていました。ハワイや、その後はアメリカ、メキシコ、明治後期には南米(ペルーなど)や東南アジアへの移民も始まりました。しかし、その内アメリカ合衆国への移民は、黄禍主義の影響もあって移民送り出しを制限せざるを得なくなります。

 1888年に奴隷制を廃止したブラジルでは、その後のコーヒー農園での労働力不足を補うためヨーロッパからの移民(コロノ移民と呼ばれる契約移民)を誘致し、受け入れていました。しかし、劣悪な条件下での労働は移民の不満を呼び、ドイツやイタリアといった移民送り出し国の政府は、「奴隷同然の移民送り出しには協力出来ない」と、出国を停止したりしました。
 こうして、労働力不足に悩んでいたコーヒー農園主とブラジル政府に、当時アメリカ合衆国から日本人移民を締め出され困っていた、『皇国殖民会社』が、日本人移民の受け入れを売り込んでいきました。

 やがて『皇国殖民会社』はサンパウロ州政府と契約調印し、毎年1,000人の農業移民をブラジルへ送り出すことで一致し、日本国内での移民希望者募集を開始しました。移民の条件の中に、「移民は夫婦を中心に、12歳以上の子どもか夫婦の兄弟姉妹を含む『3人以上の家族』であること」というものがありました。『皇国殖民会社』は、この「家族」の条件を満たすため、移民希望者の中の独身者たちを名目上の夫婦・親子・兄弟にしたりしました。また、外務省へ供託するはずだった保証金(10万円)を調達出来なかったため、移民たちからの「預り金」を流用してこれに充てたりしました。

 私は、現在 在日外国人の方々の入国管理局手続などを仕事上しておりますが、現在の日本に来る外国人たち(特に、賃金格差のある途上国の人たち)を見ていると、「当時の日本人ブラジル移民と同じような状況下にある人たちもいるなぁ」と考えずにはいられません。例えば、制度が悪用されることも多い『研修生』などです。中国やヴェトナムなど、現地には『研修生送り出し機関』と呼ばれる会社が沢山ありますが、中には「研修生として日本に来るための条件」を改ざんしてつくったり、研修生から「預り金」を取って、しかもそれを自社用に流用してしまったり と、明治日本の『皇国殖民会社』と変わらないようなところも、沢山あります。まさに、時代や国が変わっても…ですね。

 現在、日本はまだ賃金水準も高く、海外から出稼ぎ目的で人が集まって来ている国の一つです。しかし、時代が変われば、ちょうど、かつて多くの外国人労働者・移民を受け入れていたブラジルやフィリピンの人たちが、現在仕事を求めて日本へ働きに来ているように、日本人もまた、海外へ出稼ぎに行く時代が来る と考えています。
つづく