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成田発の飛行機で、まずは ソウル Seoul へ
1991年12月 ソウルは 身を切るような寒さだった。
ライトアップされる 南大門(崇礼門) Namdaemun |
写真でもわかるが、瓦の重みのせいか 天井が落ちて来そうなため、2段ベッドは下段の方が 人気があり、ほとんど上段しか空いていなかった。 当時は 日本のサラリーマン! だったため、安全な 下段ベッドは先輩に取られ、僕は上段ベッドに眠った ので ちょっと怖かった…。 (ウソ…。 一緒に行ったのは いい先輩でした) |
梨 泰 院 It'aewon イテウォン (ソウル市竜山区) |
イテウォンは、上野のアメ横のような雰囲気のところだった。長い間 アメリカ軍の施設があったため、米軍の関係者らしき人たちが町なかに多い(その点では横須賀にも似ている)。 他の国の人たちも多く見かけたが あれはどういう人たちだったんだろう…。 それにしても、革製品屋の呼び込みのお兄ちゃんはしつこかった。 見れば カネ 持ってないのわかるだろうに…。 |
ソウルの高速バス・ターミナルから長距離バスに乗り込み、4時間半。
新羅時代の古都、 慶州 Kyongju へ。
天馬塚をはじめとする 多くの古墳や史跡が残っている。 日本の京都・奈良のようなところだ。
天馬塚へつづく道 |
仏国寺(佛國寺) |
宿は ハンジン(韓進)荘旅館 HANJIN HOSTEL 慶州市路西洞 |
参 鶏 湯 Samgyetang | |
←烏骨鶏(オゴルゲ)の参鶏湯 参鶏湯(お頭付き)レシピのページはこちら |
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この年が特別だったのか、それとも韓国はこういうものなのか、メチャメチャ寒かった。 そんな中 僕たちは、慶州で 初めて 参鶏湯(サムゲタン) というものを食べた。 鶏の内臓を取り出し、もち米、棗(ナツメ)、ニンニク、高麗人参などを詰めて土鍋で煮込む スタミナ料理で、おかげで風邪をひかずに済んだ。 今でこそ 名古屋でも2,000円くらいで美味しい参鶏湯が食べれるようになったが、当時は東京でもあまりなく、あってもメチャメチャ高価なもの(特に烏骨鶏・オゴルゲのものは)だった。 以来、やみつきになり、その後 トランジットなどでソウルによる度に、景福宮近くの 土俗村(トソクチョン)という参鶏湯の専門店に行った。 おかげで飛行機に乗り遅れそうになったこともあるが…。 将来、自家製参鶏湯をつくるべく、庭には棗(ナツメ)、枸杞(クコ)の木などを植えている。 あとは烏骨鶏でも飼えば、もう完璧だ。 ⇒ 『“幻の”烏骨鶏 飼育計画 』のページへ |
慶州から鉄道で 釜 山 Pusan へ
釜 山 駅 にて Pusan station この頃はPusan と表記されていたが、 最近ハングルのローマ字表記が変わり、 Busan になったそうだ。 |
竜 頭 山 公 園 の 釜 山 タ ワ ー 街歩きのとき目印になる。 その前にあるのは、名提督 李 舜臣(イ・スンシン)の像。 |
チ ャ ガ ル チ 市 場 |
釜山港の近くにある 建物内の市場で、魚介類を売る店やそれを食べさせる店、周辺にも 屋台がひしめく。 海産物のほか、雑貨や服を売る店も沢山あった。 |
「さ、さむい! 韓国ってこんなに寒かったの!?」 ”南極越冬隊”のような防寒装備で寝る A 先輩(鹿児島出身のためか、寒がり)。 民宿のオンドル部屋は暖かいと聞いていたが、 あまりの寒さのため 暖かいのは床から30センチ だけだった。 そのため ふたりとも 民宿の オンドル床にへばりつくようにして眠った。 |
辛ラーメン と スンニュン | |
僕が初めて辛ラーメン(韓国のインスタント・ラーメン)を食べたのは、学生時代の旅行中だった。東欧のユースホステルで
若い韓国人バックパッカーと知り合ったが、その彼が山のように辛ラーメンを持って旅していたのだ。僕は
カロリーメイトかなんかと物々交換し(どっちが得したかはわからない)、ユースのキッチンで一緒につくって食べた。
彼は米まで持ち運んでおり(米はどこかの国で買ったらしいが)、ご飯も炊いて一緒に食べた。
食べ終わり、久しぶりの東洋ごはんに満足していると、彼はおもむろに、「韓国のお茶を
ごちそうしよう!」と言いだした。 まだ何か出てくるのかと期待して待っていると、彼はいきなり さっきご飯を炊いた鍋に水を入れ、沸かし始めた。僕はいやな予感がしつつも 黙って見ていた。やがて 熱湯に近くなると、鍋に張り付いていた おこげをそぎ落とし始め、おこげで茶色っぽくなったお湯をコップに入れ、僕に手渡した。 びっくりしたが、飲んでみるとなかなか香ばしく、つくってるところを見なければ もっと美味しく飲めたかも知れない と思った。 後でわかったことだが、これは スンニュン という 韓国でよく飲まれる飲みものだった。 |
景福宮 光化門前にて 門の後方に建つ建物は、旧日本総督府 庁舎。韓国の人たちにとっては忌々しい ものだったが、1995年に取り壊しが決まり、 今はもう無い。 |
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香遠亭 景福宮内、池の中の小島に建つ。 ソウルの中心部とは思えない静けさだ。 |
あ こ が れ の 韓 朝 食 | |
(この写真は、 日韓市民ネットワークなごや さんに提供して頂きました) |
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僕は前から、 韓朝食 とでもいうのか 韓国の伝統的な朝食を一度は食べてみたいと思っていた。 写真のような、おかずが ずら〜っと十数種類も出てくる 料理膳だ。韓国では、別に朝だけ食べるというわけではなく 昼も 夜も 関係ないそうだが、僕は何故か 朝 食べるべきもの というイメージを持っていたのだ。 しかし、旅館をはじめ、食べさせてくれそうなところはどこにも無く、やっと見つけたお店も メニューを見てえらい高かったのでやめた。 「たかが “朝めし”に この値段はないだろう…」 という金額だったのだ。 結局、純韓国風朝食は 旅行中食べれず、それどころか移動中の朝食など 駅の うどん と キンパプ(海苔巻)の連続だった。それでも 先輩は、「九州のうどんに近い」など と喜んでいたが…。 |
板 門 店 |
大韓旅行社 KTB の日帰りツアーに申し込んだ。 “どうしても行きたかった” という A 先輩に、ちゃんとしたズボンを持って来るよう、出発前から何度も言われてたので、この日はバッグの下の方からズボンを引っ張り出し、いつものジーンズはしまって出発地のホテルへ向かった(板門店に行くときは、ジーンズやスニーカーは禁止なのです)。 “何があっても責任は問いません”などと書かれた宣言書にサインをさせられ、バスに乗り込んだ。ソウル市内を出て どのくらい行っただろうか。戦車や軍用トラックが 道路脇に目立つようになり、やがて板門店に着いた。 |
板 門 店 にて 北朝鮮側の板門閣が見える。 双方の軍人が 静かにゆっくりと 巡回していて、緊張した雰囲気だ。 |
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北緯38度線のかなたが見える。 今日もこの視界の中のどこかで、 北朝鮮側の兵士が地下トンネルを 掘ってるかもしれない と思うと、 戦争はすごいなぁ… と思った。 |
新 年(1992年)は ソウルで迎えた。
謹 賀 新 年! 新正月は、思っていたよりは平常通りだった。 後年、韓国の人たちにとっては 旧正月の方が お正月の本番らしい ということを知る(後述)。 ソウルの新しいエリアにも行きたい ということで、地下鉄2号線(緑色の電車) に乗り 駅三(ヨクサム)駅で下車。 半島ユースホステルに泊まった。 江南区 この辺り 新興の地域で、マンションの建設 ラッシュもあったそうだ。 |
世 宗 (セジョン) 大 王 の 像 | |
朝鮮王朝 第4代国王(在位1418〜1450) 詳しい友人によれば、訓民正音(ハングル文字)は 宮殿の窓の格子の形にヒントを得て、この人が思い ついた という説もあるそうだ。 民衆が文字を理解 することを怖れた 特権階級の反対を押し切って ことを進めた というから偉い人だ。 ハングルはちょっとだけ書けるが、合理的でパズル のように組み合わせられるし、(ある程度までは) 習得しやすい文字だそうだ。 日本のひらがな・カタカナよりも 表音出来る幅は はるかに広い。 |
お ま け |
その後も トランジット等で7〜8回は寄った、ソウル。
(要するに我が家は、アシアナ と 大韓航空 の常連さん ということなんですが…)
1995年 秋 キムチづくり を見学 帰国後 我が家では、韓国食材屋さんで キムチの材料(韓国産唐辛子や塩辛 なども)を買い込み、キムチづくりに 初挑戦。 が、見事に失敗…。 恐ろしいものが出来上がってしまった…。 やはり 数百年の食文化は、簡単には 盗めない。 後年、我が家では屈辱をはらすべく、 キムチづくり教室に参加した。 |
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1998年1月末 いつものように トランジットで寄った ソウルだったが、今回は大失敗。 旧正月に当ってしまったため、コンビニと ファースト・フード以外は み〜んな 休み! 新正月はそれほどでもなかったのに…。 皆さんも、地方の伝統行事でも見に行くなら ともかく、そうでなければ 旧正月は避けて 行ってください。 |