金は貯まった。会社を辞めて、西回りで世界一周だ! 期間1年間 世界一周旅行 のダイジェスト版です。
Around the World Backpacking Alone
APR,1992 - APR,1993TOPPAGE
I quit my job to feel the globe !
プロローグ:1992年、前から温めていた長期旅行を実行に移した。しかし、今でこそインターネット、ガイドブック他 旅の情報は沢山あるが、1992年当時は、インターネットもメールも 旅の掲示板 も全く無く、ガイドブックも普通の観光国のものしか無かった。そのため、この旅行のメインの目的であった中東についても、当時はほとんど情報が無く(特にイランなど)、ガイドブックも年配者遺跡廻り高級ツアー用程度しか無く、もちろん『地球の歩き方』なども出ていなかった(今でこそ、かなりレアな国のバックパッカー用ガイドブックも沢山あるし、インターネット検索でものの20秒で情報が出て来るが…)。
そのため、東京にいるイラン人に声を掛け、コーヒーをおごって情報を聞き出したり、「たしか高校時代の歴史の先生が中東史専攻と言ってたな…」と思い出し、わざわざ母校に電話して情報を聞いたりした(その先生も、結局行ったことは無かったが)。それほど、『旅の情報』がネックだったのだ。
どれくらいの数の国へ行くか見当もつかなかったし、仕方ないので 旅先の情報収集は、“旅をしながら” “安宿などでの旅行者同士の情報交換や現地の人たちの情報から” 次の目的地の情報を集めつつ旅をすることにした。 かくして僕は、何の情報・ガイドブックも持たずに、成田から出発したのだった。
今は本当に便利な時代だ。どこでもインターネットが使え、旅先からのコミュニケーションもEメールで簡単に出来る。この時代は、20代の人とかは想像も出来ないだろうが「『大使館預かり』で手紙を受け取っていた」時代なのだ。ちなみにうちの親は、Eメール連絡などももちろん無いし、手紙もなかなか着かないし(ちゃんとインドから出したんだけどなぁ…(^^;)、「うちの息子は死んだ」と思い、「もう忘れよう と思っていた(実母談)」そうだ(汗;)。(そんな簡単に殺されてたまるか〜!(^^;)。 旅行中、1カ月以上 日本人に会わない・日本語に接しないことなどもあり、旅行者はお互い 日本へ帰る日本人旅行者を見つけたときには、相手に実家の電話番号と電話代を渡して「日本に着いたらうちの実家に一本電話してやってください」などと言い合っていたのだ(若い人は信じられないだろうが…)。僕の世代よりも前の世代(シベリア鉄道でヨーロッパへ行っていた世代や、沢木耕太郎の世代)の人たちは、今日のバックパッカーからすれば行った国の数こそは少ないが、もっとすごい思い・苦労をして旅行をしていたはずだ。
今は情報・通信・交通面、ヴィザの面などでも 格段に便利になり、誰でも簡単に、僻地の国へも行けるようになった。でも反面、情報が無く“たったひとりで”、“この先の見当がつかない”、“自分だけが頼りの”旅行をしている といったスリル感(この先オレはどうなるんだろう…という、ハラハラドキドキ感)のある放浪ひとり旅は、旅先で嫌でもインターネット・カフェが目に付く今日、ほとんど味わえなくなっているのでは無いだろうか…。(と、実は半分やっかみで言っている僕だが、何を隠そう一番欲しいのは… ドラえもんの『どこでもドア』である)チャンチャン。
酷暑のバンコクからスタート。 Bangkok, Thailand 既にソンクラーン Songgran (水かけ祭り)も終わり、ただ暑い だけのタイ。でも暑い時期が一番、 果物は豊富だ。 |
5月 灼熱のインドに到着。 Taj Mahal, India |
インドに着いたのは5月前半だった。実はここに来るまで、インドも日本と同じで8月が一番暑いものと思い込んでいた。「8月になる前にインドから出よう」 などと考えていたが、デリーで 日本人バックパッカーに見せてもらったガイドブックには、な、なんと、「インドは 5月が一番暑い」 と書いてあった。日中はオーブン、夜はサウナの中 といった感じだ。 ちなみにその日本人はインドのリピーター。 「いや〜、一度でいいから、一番暑いインドに来てみたかったんですよ〜」 だと(^^;。 上の『プロローグ』で書いているように情報を事前に集めなかったので、実はこういう失敗もかなりした。以来 懲りて、少しは旅の下調べをするようになったのだった。 |
下町に入ると、すごろくのような 遊びに熱中している人たちがいた。 |
アーグラーで 細菌性の下痢 にかかり、パキスタンの カラチ Karachi で更に悪化。
念のため日本から持って行った 抗生物質 も全く効かない。結局、完全に回復するまでに
その後 2カ月ぐらいかかった。ボロボロになりつつも、パキスタンより国境を越え、 イランへ。
イラン中部の古都、 |
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今は ガイドブック もあるし旅行者もだいぶ増えたようだが、この頃のイランには外国人はほとんどおらず、珍しさもあってかどこへ行っても歓待してもらえた。「外国の情報に飢えていた」
ということも あったのかもしれない。 ただの旅行だというのに、別の町へ着くたびに いちいち警察まで行って外国人登録をしなければならず、面倒だった。 意外だったのは 多民族?国家だったこと。アルメニア系、トルコ系、クルド系、アフガンのハザラ族系、ユダヤ系の人にも会った。よって宗教も イスラム教シーア派だけ という訳ではなく、また外見も いろんな顔つきの人がいる。 こんなことがありました。 【ヴィザのトラブル】 ⇒ 『イラン滞在記 1992』へ |
どこの町でも、脱水症状で衰弱しきった 見知らぬ外国人を家に泊め、病人食をつくってくれ、何の見返りも要求せず、お金も絶対に受け取ろうとしなかった
イランの人たちに感謝。 麻薬の売買 や 重婚の問題 など、確かに一部の在日イラン人の問題があるが、そのために日本での イラン全体のイメージが悪いのが とても残念だ。 ⇒ 『イラン滞在記 1992』へ |
トルコ西部 ドゥバヤジットの |
←お世話になったクルド人の家族と。 A Kurdish Family |
【クルド人について】 クルド人は、国を持たない民族としては世界で最も人口が多い民族 と言われている。 イランやトルコ東部では、クルド人の人になにかと世話になった。今思うとすごいことだが、イランで、在テヘラン・リビア大使館で働いていた、イラクから亡命して来ているクルド人 とも友達になった(リビア大使館の中にも入れてもらえたが、中には巨大な『カダフィの世界地図』があった)。
彼も英語、アラビア語、クルド語、ペルシャ語など多くの言語を話せたが、大国の国境地域に暮らし、国を持たないクルド人には、このように普通に数カ国後を話せる人が多く、結果 国際的な仕事についているケースが多いそうだ。 |
イスタンブール ボスポラス海峡 The Bosporus, Istanbul |
楽しみにしていた イスタンブール。 しかし・・・。 |
この数年で、なんとまあ、あやしい日本語を話す物売りが増えたことか・・・。学生時代(1980年代後半)に来たときは、ほこりっぽい路地の奥には必ずといっていいほどチャイ屋があり、水パイプをふかし、チャイをすすりながら バック・ギャモンやトランプに興じる、「男の社交場」 ともいえるものがあった。
それがどうだ!? 町は すっかり ヨーロッパ化され、チャイ屋は カフェ になり、店の前にパラソルなんぞを出して、そこで 若いカップルが パフェ なんぞを ひとつのスプーンで食ってやがる。 この急激な変わりようは いったいなんだ!? イスタンブールが失った“何か”を求め、僕はトルコの田舎へ向かった。 アンカラの駐トルコ・シリア大使館での査証申請時、トラブルにあってシリアのビザを取れなくなってしまった。日本大使館からもレターを出してもらい、イスタンブールのシリア領事館へ回ってなんとかビザを取得。シリアへ向かった。 ここに限らず中東では、日本大使館・総領事館の方々に何かとお世話になった。欧米諸国を旅していても、ほとんど世話になることなど無いと思うが…。 トルコの西部、南部をまわり、南東部 アンタクヤ Antakya から国境を越え、シリアの アレッポ Allepo へ。アレッポでは、後年日本でも流行り出した、オリーブ石鹸の工場なんかも見学した。 |
シリア パルミラ遺跡 Palmyra, Syria 暑い・・・。夕方以降、涼しく なるが、野犬が多くなるので 気をつけて。 |
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この当時、シリアからヨルダンへの国境越えがちょっと大変だった。この少し前に問題を起こした日本人とエジプト人がいたらしく、国境越えのバス会社(シリア国営バス会社)が、「日本人とエジプト人は国境バスに乗せない」などと、子どもみたいなことを言っていたのだ(そのくせ使ってるバスは三菱製(^^;)。仕方なく、タクシー、ヒッチハイクの乗り継ぎと歩きで国境を越え、ヨルダンに入ったのだった。 ヨルダンの首都アンマンでは、当時からバックパッカーが多かった安宿、クリフ・ホテル(CLIFF HOSTEL)へ。一泊400〜500円程度だったが、屋上だともっと安くなる。 |
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アンマンからぺトラへ移動。 ヨルダン ペトラ遺跡 宝物殿(エル・ハズネ)⇒ Petra, Jordan 岩山を切り開いたような道を歩いていくと、突然目の前に現れる。 インディ・ジョーンズ『最後の聖戦』のロケ地としても知られる。 |
ヨルダン川を渡り、イスラエルへ。 Across the Jordan river to Israel. |
当時 ヨルダンからイスラエルへ向かうバスの中には、パレスチナ系のアメリカ人が多く乗っていた。彼らは、故郷には帰りたいがパスポートに “イスラエル” の跡がつくのが嫌だったので このルートを選んだんだろう。 国境のアレンビー橋では、パスポートではなく 一枚の紙にスタンプを押してくれる。こうして パスポートに “イスラエル” の跡が残らなければ、同じパスポートで エジプト以外のアラブ諸国へも行くことが出来た (当時の話)。 |
エルサレム 岩のドーム Dome of the Rock, Jerusalem ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のどれから見ても、重要な聖地エルサレム。 この岩のドームは、ムハンマド(マホメット)が昇天した岩の上に建てられた。 |
イスラエルから スエズ運河を渡り、 エジプトの首都カイロへ。 Suez Canal, Egypt ⇒ |
カイロでの宿はもちろん、安宿サファリ・ホテル。スーク・タウフィケイア(野菜類の市場)の近くで、長期旅行者多し。有名な小林住人にも会った。サファリにはこの1年半後にも泊まることになったが(⇒『イスラエル・エジプト出逢い旅』編へ)、小林住人はそのときもまだ いたのだった。 |
ルクソール西岸 メムノンの巨像 Statue of Memnon, Luxor イスラエルとエジプトは、後年じっくりと 行くことになった。 ⇒『イスラエル・エジプト出逢い旅』編 |
この後 東ヨーロッパへ移動。
秋 ハンガリーのブダペスト Budapest, Hungary けっこう気に入っている国だ。田舎もいい。 学生の頃 来たときに比べ、マクドナルドの数が3倍ぐらいに増えていた。共産主義の崩壊と、西欧・アメリカ文化の定着を感じた。今頃はもう、ケンタッキーやデニーズなんかも出来てるかもしれない。 |
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チェコ スロバキア プラハ⇒ Prague, Czechoslovakia (確かまだ分離していなかったような・・・) 広場には魔女が住んでいそうな城が。 さすがはホップの本場。 生ビール(ピルスナー)がジョッキで30円くらいだった。しかも美味しい!おじさんたちは朝から飲んでいた。 プラハはきれいな街でした。 |
北欧 スウェーデン ストックホルム Stockholm, Sweden 旧市街 ガムラスタン。 |
ある意味で、世界で一番バックパッカーに厳しい土地、北欧。要するに物価が高いのだ。 ホテルには高くて泊まれず、駅と夜行列車を定宿としていた。インドで150円、エジプトで200円 の宿に泊まっていた僕にとって、 ユース・ホステルでも 6,000円 という値段は、到底 出せる金額ではなかった。そして、こんなこと書いたら親が嘆くが、ファースト・フード屋のトイレ内洗面所で髪の毛を洗った。マクドナルドの洗面所は、シンクも大きく洗いやすかった。手を乾かす温風器は、ドライヤー代わりにもってこいだ。 福祉の国 というのに 浮浪者 がいたが、彼も 旅行者 だったのかも知れない。 (そんなことはないか・・・) |
アルザス地方 コルマール⇒ Colmar, Alsace, France ストラスブール Strasbourg の南方。ドイツとフランスの間に位置し、歴史上両国の間を行ったり来たり。現在はフランス領だが、ドイツの影響も濃い。 ドイツらしいザワークラウトも、ここではシュークルートと呼ばれ、名物料理だ。 他に、クグロフというお菓子も有名。今や日本でも買えるので、うちはよくこのクグロフを、Xmasシーズンに買って食べている。 |
←北イタリア コモ湖 Lake Como, North Italy. 朝もやにつつまれた、コモ湖の風景。写真ボケてますが実際はきれい。 ミラノから数時間で行ける。 |
パリでは ラッキーなことに、両親の知り合いの画家(増田 誠 画伯・故人)のお宅(パリ13区)に泊めてもらい、お世話になった。宿代の高いパリで居候出来たことは、本当にラッキーだった。 毎朝早起きし、リュー・ド・ムフタール という大きな市場まで歩いて行った。専門店で 毎日1個か 2個 チーズを買い、鴨やうさぎのテリーヌ、焼きたてのフランス・パンやキッシュなどを買い込んだ。僕はけっこうグルメなのだ。フランスの食べ物はイギリスなどと違い、お金を出しても納得するものばかりだ。特に大好きなチーズ(フロマージュ)は、毎日専門店へ行き、日本ではなかなか買えないような種類のチーズを買った(白カビ、青カビ、ウォッシュ・タイプ、山羊乳…)。 そのままいろんな観光地・名所へ徒歩で行った。おかげでパリの地理に詳しくなった。帰りはさすがに疲れ、地下鉄。今 思うと、なんて健康的な旅行者なんだろう!という感じだ。 |
←ニューヨーク New York ブルックリン橋にて Brooklyn Bridge ニューヨークには様々な人種のエスニック・タウンが有り、面白い。 |
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イスラエルにいるような錯覚を覚える ブルックリンのユダヤ人街。⇒ ニューヨークには、イスラエルの人口よりも多いユダヤ系市民がいる。 アメリカ中の Jewish Deli やBagle Shop によく置いてあるDr.Brown's の Celery Soda(セロリ・ソーダ)は僕の好み。日本でも探してるが、なかなか無い。 ちなみに、この頃初めて『ベーグル』を食べた。そもそもユダヤ系の人たちがアメリカに持ち込んだものだ。以来、アメリカにいたときは毎日、主食のように食べていた。 ベーグルについてより詳しく知りたい人は ⇒BAGLE普及委員会さんのページへ |
当時 バックパッカーのあいだでは、 『アメリカで 大統領の名前が付いている安ホテルは、設備も古いし 危なくて最低!』 という うわさがあった。 そして このホテルには
"Washington" 、"Jefferson" と、ご丁寧に ふたりの大統領の名前が付けられていた。 以降、ゴキ○リとお友達になる生活がしばらく続く…。 数年後、妻と ここ ニューヨークを訪れたとき、懐かしいこのホテルにもう一度泊まろうと思ったが、妻に拒否されてしまった。(追伸:その後のリニューアルで、このホテルはメチャメチャきれいになったらしい) |
ご存知、ハーレムの殿堂 アポロ・シアター THE APOLLO THEATER Harlem, New York ハーレムには数回、日曜に黒人教会のゴスペルを聞きに行ったりした。中心街の125丁目あたりで暗くなる前ならば、それほど危なくはない。但しあまり細い道には入らない方がいい。(註:1993年当時の話です) ソウル・フード Soul Food の食堂に入ってみた。昔、黒人が奴隷にされていた頃、白人農園主たちの食材の残り(肉ではなく臓物など)やトウモロコシなどで上手に料理をつくった。ソウル・フードはその名残だ。 残りもので美味しいものをつくった という意味では、ブラジルのフェイジョアーダに似ている。 |
むか〜し、学生時代に トルコで出会った人の家へ。 ⇒ ニューヨーク市からバスで6時間ぐらいのところ。農家だったため、予期せぬファームステイとなった。真冬の薪運びや干し草下ろしは大変だったが、貴重な体験をさせてもらった。 さすが アメリカ。 どんな田舎でも(田舎だからこそ?)、パラボラ・アンテナがあり衛星放送を見ている。 |
サクラメントの郊外 約1年前(この旅の始まりの頃)、タイからインドへ行く飛行機の中で出会った、旅好きのアメリカ人のおじさんの家へ。その後も在米中は、何かとお世話になった。 やっぱり アメリカの家は大きい…。ガレージ3台。前面の芝生は決して「庭」ではない。庭は「バックヤード」といって、家の裏に大きな庭があるのが普通。 |
4月、西海岸より帰国。
この旅では、世界中のいろんな人たちのお世話になった。バックパッカーや
個人旅行の最大の良さは、現地の人たちと触れ合えること だと思います。
長期旅行の秘訣は? ズバリ! トラブルがあってもトラブルと思わず、ハプニングと思うこと。 長期の個人旅行なら、必ず何かが起こるはず。 全て計画通りに行くなら、そんな旅は どこかおかしい…。ゆがんでます。ツアーと一緒じゃないですか。
荷物を盗まれたら「荷物が軽くなった…」 列車に乗り遅れたら「これでもう少し滞在出来る…」 現地人にだまされたら「いい社会勉強をした…」 肝炎にかかったら「これで免疫が出来た…」ぐらいに考えましょう。 そうでもないと、身が(というより気力が)もちません。
もうひとつ、自分からあえて治安の悪いところへ近づいたりするのはやめましょうね。残念ながらバックパッカーの中には、わざと危ないところへ行って自慢したがるバカ もいますが、相手にするのはやめましょう。情報をしっかりと取り、自らの判断で責任ある行動を取りましょう。
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