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 子連れ 個人旅行のヒントになりそうな部分は、青い字に変えてあります。ご参考になれば幸いです。

チュニジア沿岸部シディ・ブ・サイドにて(バックは地中海)SidiBouSaid,Tunisia

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 結論からいってしまうと、今回の旅行にはちょっと無理があった。15日間でチュニジアとシチリア島。大人だけならそれほど問題はないが、1才11ヵ月の子どもを連れての移動型旅行は、予想以上にハードだった。

 実は当初は、チュニジアではなく エチオピアを隅々までまわるつもりだった。だが、情報を集めるとシーズンも良くなく、1才児にはきつそうだったので断念し、チュニジアに変更したのだ。そのため少しだけ、エチオピアに未練があったのだが・・・。
 今 この旅を終えてみて 「チュニジアにしておいて本当に良かった。エチオピアなんて行ってたら とんでもなかった・・・」 と胸をなでおろしている。ツアーなら別だが、子連れ個人旅行の行き先は、やはり子どもの体力に合わせて決めるべきだ。チュニジアを選んだためこの程度のハードさで済んだし、小さい子がいることでより多くの人が声をかけて来てくれ、楽しい旅行になった。
 まず最初に、僕たち親子3人は大韓航空でスイスのチューリヒに入った。飛行機の都合で一泊。チーズフォンデュでも食べに行こう などと思っていたが、旅の始まりでいきなりトラブル。大きなバックパック (かなり重い。何せ3人分の服、日用品+オムツ2週間分、粉ミルク小1缶、乗り物内・ご機嫌取り用おもちゃ などなど・・・)の肩のベルトが、早くも名古屋空港でぶち切れてしまったのだ。そのためチューリヒでは、修理してもらえそうな靴屋さんを探し回るはめに。なんとか見つけて修理してもらい、ホット・チョコレートを急いで味わった後、チューリヒ国際空港へ。スイス・エアーに乗り込み、チュニジアへ飛んだ。
 [ チュニジア編 ]
 
 昼過ぎ、チュニスの空港に着くと、早くも北アフリカらしい乾いた温かい風を感じた。バスで市内へ出、安宿探しだ。小さい子はダニなどにやられたら大変なので、ある程度の清潔さが必要だ。こぎれいな宿は$20ぐらいで見つかり、一休みして街へ出た。チュニジアの首都チュニスは、メディナと呼ばれる旧市街と、官庁や企業、駅などが集まる新市街とに分かれている。フランス領だった影響か、新市街にはヨーロッパ風の建物が多い。
 かなり以前から男女同権を打ち出しており、街行く女性のほとんどは欧米とあまり変わらない服装で歩いている。もちろんこれは首都だからで、地方へ行けば少々事情が違う。この時期は気候も良く、人も親切。旅行しやすそうだな、という第一印象だった。
 チュニスを含むチュニジア沿岸部は、ヨーロッパ人、特にフランス人にとっては馴染み深いリゾートのようなもの。子連れのツーリストもいっぱいいるのだが東洋人の子どもは珍しいらしく、早くもいろんな人たちがうちの子の周りに集まって来てキスをし始めた。ヨーロッパ人ツーリストの子どもや赤ちゃんもいるのに、どういう訳かうちの子の周りにだけいつも人だかりが出来た。よほど珍しかったらしい。後でわかったが、この傾向は田舎へ行けば行くほど強まった。
 その夜はマグレブ(アラビア語で日の没するところ。モロッコ、アルジェリア、チュニジアを指す) の代表的な料理、クスクスを食べた。クスクスは旅行中何度も食べたが、やはりマトンをのせたオーソドックスなものが一番うまい(と僕は思う)。ハリッサという、韓国のコチュジャンのような唐辛子ペーストを好みでのせたりもする。羊のブローシェット(串焼き)も最高だ。新鮮な羊肉は臭みもなくジューシー。でも骨付きは食べるのがちょっと難しい。チュニジアン・サラダも美味しい。子どもも、普段からエスニック料理を食べさせているせいか、何でも食べてくれたのでたすかった。材料は今や日本でも手に入るものばかりなので、そのうち挑戦しよう。
 チュニジアに着いて最初の夜の深夜、困ったことになった。大人はともかく、小さい子の体内時計はとても正確で、日本時間の朝9時頃になると、チュニジアが夜中の2時だろうが 「トト、トト(外、外)」 といい、駄々をこねだしたのだ。外を見せて、 「ほ〜ら。 まだ真っ暗だよ〜。」 などとごまかしてはみたが当然納得しない。いつもなら公園に出かけ、ブランコに乗っている時間だ。彼の不機嫌は頂点に達し、やがて、闇夜をつんざくような大きな泣き声が、安宿の天井に反響し始めた。他の宿泊客にも迷惑なので、しばし真夜中のチュニスを散歩し、まだ夜なのだと納得させてからようやく寝かしつけた。チュニジアは治安がいいから良かったが、これがロスならえらいことだ。
 翌朝、寝不足の目をこすりながら、郊外のシディ・ブ・サイドまで電車で行った。途中、カルタゴの遺跡群や大統領官邸を見ながら、やがてシディ・ブ・サイドに到着。ここは、白壁と丸い屋根の家にチュニジアン・ドアー、凝った飾り窓やタイル細工など、伝統的なチュニジアの家並みや石畳と地中海の風景がマッチしていて、とてもきれいなところだ。写真だけ人に見せれば、ギリシャの島だと思うかもしれない。白とチュニジアン・ブルーで統一された街並はリゾートのようで、オレンジの花の香りが満ち、どこの路地に入っても家と家の間に地中海が見える。
 カフェで松の実入りのミント・ティーを飲み、おみやげ屋をのぞきつつのんびりと過ごした。地中海沿岸部はこの時期、朝夕はけっこう涼しくなるが昼間は太陽が照りつけ暑くなる。でも日陰に入ると過ごしやすく、つい昼寝などしてしまう。寝不足のせいもあり、親子3人でぐっすり昼寝。その後チュニスへ戻った。
 まだ着いたばかりだが、そろそろやらなければならないことがあった。日本へ帰る飛行機はイタリアからなので、チュニジアからイタリアへ行く段取りをつけておかなければならない。南イタリア(ナポリかシチリアのパレルモ)へ飛ぶ飛行機、マルタへ飛ぶ飛行機などいろいろ探したが、おりしもチュニジアの観光シーズンということでなかなか取れず、結局、シチリアのトラパーニ港へ行く夜行寝台フェリーのチケットを買った。かくして今回の旅の目的地は、「チュニジア と シチリア島」 ということに決まった。
 一安心し、翌朝チュニスから鉄道で、地中海沿岸の街 スースへ向かった。
 列車がチュニス市街を出、左手に地中海を眺めつつ30分ぐらい走ると、両側に整然としたオリーブ林が出てきた。ものすごい数だ。それもそのはず、チュニジアはオリーブ油の輸出国なのだ。ときどき、オリーブの樹の下で仔やぎが遊んでいる。とにかく乾燥しているというのに、オリーブの樹は青々と大きく茂っている。
 サボテンは、うちわのような枝葉を高く積み上げていったように大きく育ち、てっぺんに大きな赤い実をつけている。サボテンの実は以前食べたことがあるが、キゥイーをすっぱくしたような味だ。葡萄や小麦畑も少し。ところどころイチジクも自生していた。樹の下に沢山植えられている草は、どうもミントのようだ。北アフリカの人たちはよくミント・ティーを飲む。
 列車は南へ進み、やがてスースに着いた。
 地中海に面した街、スースは比較的大きな街で、多くの中東の都市同様、近代的な新市街と、「メディナ」と呼ばれる城壁に囲まれた旧市街とに分かれている。ちなみにここの旧市街は、UNESCOの世界遺産にも登録されている。
 メディナのつくりは大体どこも似ていて、歴史上、外敵防止のため中は複雑に入り組んでいる。金・銀製品や独特の水パイプ、絵皿などを売るみやげ物屋、絨毯屋、スパイス屋、昼間から大の男たちがたむろしているチャイ屋、などなど多くの店がひしめいている。スパイスの香りが充満する中、狭い石畳の路地を荷車が走っていき、あちこちでアラブの音楽がボリュームいっぱいにかかっている。僕はイスラム圏へ旅行に行くのが好きだが、なぜかこの雰囲気はとても落ち着く。
 歩き疲れたのでチャイ屋に入り、甘〜いミント・ティーを飲む。北アフリカの人たちは、これでもか、というくらいに甘くして飲む。そして、バクラワという、蜂蜜にたっぷり浸した、これまた甘〜いお菓子を食べる。バクラワはピスタチオのかかったやつがうまい。ほこりっぽいチャイ屋で、水パイプをふかす人やゲームに熱中している人たちを見ながら甘いチャイをすすっていると、中東へ来たんだなぁ、という実感が湧いてくる。 イスラム圏の人たちはただでさえ旅行者を放って置かないが、今回は子連れのためかより多くの人たちが話しかけてきて、あっという間に時間が経ってしまった。
 翌日、朝早くから砂浜へ向かった。相変わらず一番元気な子どもは、時差のため遅くとも朝4時には起きて、髪の毛を引っ張ったり噛みついたりして起こしてくれるので、一日を有意義に使うことが出来た。このあたり湿気は少ないが日差しが強いためビーチは午前中で切り上げ、地中海沿岸の国ではあちこちに見られるジュース・スタンドへ。絞りたての生オレンジ・ジュース、ザクロ・ジュースなどを飲める。
 3日ほどスースで過ごし、ホテルをチェック・アウトする日の朝、枕元にチップとして置いてあった1ディナール硬貨がないのに気づいた。近くで何やら子どもが、口の中をモグモグさせている。もしや、と思ったら案の定、口の中からコインが出てきた。どうも衛生的に隔離しようというのは難しいらしい。
 スースから鉄道に乗り、チュニジア南部の都市ガベスへ向かった。しばらく進むと、またオリーブの林が出てきた。列車が進むにつれオリーブの樹が段々減っていき、その代わりにナツメやしが目立つようになってきた。風景は益々乾燥したものになっていく。3時間もすると、オリーブとナツメやしは完全に入れ代わり、やがてガベスに着いた。ここには特別見るものはないので、水を買い、ルアージュと呼ばれる乗合いタクシーで更に1時間。サハラ砂漠の玄関口、ドゥーズへ向かう。
 ドゥーズまで来ると、チュニスとは全く違う、砂漠の入り口 という感じがする。元々、ノマドと呼ばれる遊牧民たちの真夏の間の定住地とスーク(市場)が発達して町になったところだ。人の格好も違う。チュニスではチュニジア帽という赤いフェルト地の帽子が主流だったが、ここではターバンのような布を頭に巻きつけている人がほとんどだ。
 翌朝、近くの砂漠へ向かった。小さい子がいるので日差しの弱い早朝に行ったため、少し涼しいくらいだった。ラクダ引きと値段を交渉し、2頭をチャーター。砂漠は遠くから見ると平坦だが、実際はところどころ砂が盛り上がり、丁度スキー場のこぶのきついゲレンデのようだ。だからラクダがこぶを昇り降りするときの傾きはかなりきつい。でも日本を出る数週間前から、子どもにはラクダの写真を見せながら 「もうすぐ大〜きな お砂場に行って、ラクダさんに乗れるぞぉ〜」 などとずっとすりこみをしてきたため、キャッキャと喜んで乗っていた(そう、大切なのは 「すりこみ」 である)。もちろんパパかママと一緒に乗るが、ラクダの揺れに合わせて上手に体を動かし、なかなか板についていた(家での木馬遊びの成果か)。しかし50分もすると段々無口になってきたため、ラクダは1時間で終了。クサール・ギレンという本格的な砂漠にも行きたかったが、小さい子にはきつすぎるので断念した。
 翌日、ルアージュ(乗合いタクシー)で次の目的地、トズールを目指した。 
 チュニジア南部の町トズールに着いた翌朝、ホテルで申し込んだ半日ツアーで山岳オアシスめぐりに出かけた。この日行ったタメルザ渓谷一帯は、山あいにオアシスが点在し、映画 「イングリッシュ・ペイシェント」のロケ地にもなった所だ。最初に向かったシェビカでは、赤茶色の大きな一枚岩のような山をバックにナツメやしが群生していた。次いで、ミデスのバルコニー・オアシス、タメルザの滝などを見学した。移動中の車から見える風景は、乾燥してゴツゴツした岩だらけの土地。ワジと呼ばれる、乾期で涸れてしまっている川の跡を少年が羊を追って移動させていた。やはりここまで来ると、まさしく北アフリカ、という感じがする。チュニジア南部では「スター・ウォーズ」も撮影されている。主人公ルークの故郷、砂の惑星「タトゥーイン」の名も、元々チュニジアの地名だ。
 トズールの町へ戻り、夕方涼しくなってからスーク(市場)へ向かった。香辛料やナッツ、乳香、干物など、みな大きな布袋のままドカッと並べている。あとは量り売りだ。日干しレンガの建物の間を、放し飼いにされているヤギがすり抜けていく。子どもが行きたがるので、仕方なくヤギの後をついて路地の奥へ入っていくと、町の人たちの生活スペースが見えてきた。黒づくめのベールをかぶったご婦人たちも沢山いたが、チュニジアはソフト・ムスリムの国なので、こちらからカメラを向けたりしない限り外国人を見て避けるようなことはなかった。多くの家の玄関には「ファティマの手」というこの地域独特の魔除けがついている。ファティマとはマホメットの娘の名で、いろいろな伝説のある女性だ。

 首都チュニスへ戻り、前と同じ安宿に荷物をおろした。町へ出て、カフェでぼーっとする。ここは昔フランス領だったためか、カフェが多い。そして翌日、チュニジアとももうお別れ、ということで一番の高級レストラン、ダル・エル・ジェルドへ。ここは元々大商人のお屋敷だったところで、内装も料理も豪華。全部で3,500円ぐらいだったが、これはこの国では異常に高い食事だ。さんざ食べてきたクスクスも、ここのはどこか高級だった。
 クスクスは何回食べただろうか。パスタの一種といっていいのか、元は小麦らしい熱々の粒々を深皿に盛りつけ、上からトマト・ベースのシチューのようなものをぶっかけて食べる名物料理だ (説明が悪くてあまり美味しそうに感じないかもしれないが・・・)。別に他の食べ物もあるのだが、チュニジアに来たからには、という感じで毎日のように食べた。妻と子どもは、羊、チキン、サラダなど好きなものを食べるが、僕は何故か、義務感にかられたように毎日クスクスをオーダーした。
 その夜、チュニス郊外のラ・グレット港から、シチリア島行きの夜行寝台フェリーに乗り込んだ。

 [ シチリア編 ]

 翌朝、フェリーはシチリア島の西端にあるトラパーニ港に着いた。昨夜の夜行フェリーは、湾内から外洋に出た途端大きく揺れ始め、子どもにも大きな負担をかけてしまった。子どもにはハードな処女航海になってしまい、親として反省した。やはり無理にでも、飛行機を取っておくべきだった。

 この港町は北アフリカからの玄関口 ということで、チュニジアで嫌というほど食べた、クスクスを出すレストランが多い。まだ開いていないレストランのクスクスの看板を横目に見つつ、Bar(バール。日本のバーとは違う)へ直行した。カプチーノを一杯飲み、子どもには泡立てたホットミルクを与え、シチリアの首府パレルモへ向かった。

 途中、列車から見える風景は、チュニジア沿岸部と似ていた。違いといえば、チュニジアが平坦な地形だったのに対し、シチリアは山・谷の起伏が多いこと。植物もヨーロッパというより 北アフリカらしい感じがする。
 
 2時間ぐらいで、パレルモに到着。宿はすぐに見つかり、一休みして町へ出、早速市場へ行ってみる。トマト、ナスなども日本のとは違うし、ズッキーニや特産のブラッド・オレンジ(Sanguinaccio)も当たり前のように山積みされていた。ブラッド・オレンジのジュースは、最近日本でもよく見かけるようになったが、やはり生のジュースの方が美味しい。葡萄ジュースのような色をしている。
 今回の楽しみのひとつ、水牛のモッツァレラ・チーズ(Buffara di Mozzarella)やカッチョカバッロ・チーズ(Cacciocavallo)をチーズ専門店で買った。南イタリアが本場のモッツァレラは豆腐と同じで、つくりたてが美味しい。
 ついでに食べ物の話をもう少し。南イタリアではジェラートをブリオッシュ・パンにはさんで食べたりするが、これが意外とうまい。若い女性たちが、まるで朝食代わりのように、通勤途中食べていたりする。旅行で行かれた際には、あるいは日本でも、ぜひ試してみてください。

 昔、ニューヨークのリトル・イタリー(シチリア人が多い)で食べて以来、ファンになったカノリ(Cannoli)という シチリアのお菓子も食べた。以前 聞いた話だが、イタリア系移民の多い国にアメリカ(ニューヨーク)とアルゼンチンがあるが、ニューヨークにはシチリアやナポリなど主として南イタリア人が、アルゼンチンにはジェノバなど北イタリア人が多く渡ったそうだ。そのため リトル・イタリーで食べれるスナック類なども南イタリアのものが多いそうだが、本当かどうかは知らない。
 いろいろと異論があるとは思うが、僕は個人的に 「イタリアは、南へ行くほど食べ物が美味しい」 と思う。もちろん高級レストランの話ではなく、町中で普通に食べれるものの話だが。

 中世、イタリアのどこよりもシチリアが栄えていた時代から中心だったパレルモには、宮殿、教会など重厚な建物が数多く残っている。石畳の街並みはいい雰囲気なのだが、ベビーカーを押す身にはつらかった。僕はこの8年ほど前にもシチリアへ来たことがあるが、歴史的な建築物はともかく、街並みが前より洗練されたような気がした。前の素朴さもそれはそれで良かったのだが・・・。パレルモもいずれ、ローマのコンドッティ通りのようになってしまうのかな・・・と少しさびしく感じた。

 翌日の午後、バスで島の内陸部を突っ切り、南岸のカターニャへ。そこから列車に乗り、シチリア東部の有名なリゾート地 タオルミナに着いた。ここはエトナ山と地中海をバックに古代ギリシャの遺跡がたたずむ、まさに風光明媚なところだ。古代、シチリア島には多くのギリシャ人植民市があったが、みなローマに滅ぼされたそうだ。

 海あり 山あり 遺跡あり。タオルミナ滞在中に出会った、公私共々イタリアにはよく来られるという日本人のご夫婦も、ここを絶賛していた。ご主人の仕事の関係でイタリアにはよく来ているらしく、旅行でもすみずみまで行っているらしい。そんな人たちが、ここは特別素晴らしい、というのだから、やはり人気があるだけのことはあるのだろう。 少し難をいえば、リゾート地のため物価が高いことだ。チュニジアから来た僕たちにとって、この物価の高さは 早くも日本へ戻って来たかのような、軽いショックだった。

 帰国の日が近づいてきた。タオルミナにはもっとゆっくり滞在したかったが、2泊しか出来なかった。チュニジアでゆっくりした分、シチリアでの日数が短くなってしまったのだ。レンタカーで シチリア内陸部の小さな町へ行きたかったが、とてもそんな時間は無かった。

 夜遅く、タオルミナ発ローマ行きの夜行寝台列車に乗り込む。発車して40分ほどで島の東端、メッシーナに着く。シチリア島と対岸のイタリア本土とを結ぶ橋は今のところなく、列車はここで車両を切り離してフェリーに積み込み、対岸の本土・レジョ・ディ・カラブリアまで運ぶのだ。フェリーへの車両積み込みが終わった途端、常連客はすかさず船上のバーへ向かう。妻と子どもは寝息を立てているので、ひとりで船上へ登ってみた。少しだけ英語の話せるおじさんに一杯おごってもらっているうち、早くも20分ほどで対岸に着いてしまった。皆 しぶしぶと車両へ乗り込んで行き、列車は再び連結されて一路 ローマへ向かった。
 そして その翌日、僕たちはローマから帰国した。

 それにしても、今回の子連れ旅行は予想よりもハードだった。特にネックになったのは、移動だった。
 去年、あれほど敬遠していたハワイにまで行って予行演習してきたのに、やはりチュニジアは勝手が違っていた。 思えばハワイでは、ベビーカーはすべるようにアスファルトの上を走り、英語どころか日本語が通じ、チャイルド・シート付きのレンタカーで島中どこへでも行くことが出来た。スーパーには紙オムツとベビーフードが整然と並び、1個買うごとの値切り交渉も必要ない。これほど楽な子連れ旅行があろうか。
 次回は絶対、 バリ島あたりでのんびりしよう と固く心に誓ったのだった。


1999年 春




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