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(事務所HP)
 Pyongyang Report 
『バックパッカー ピョンヤンをゆく…』
〜ついに完成! この目で見て来た北朝鮮。いいことも悪いことも、全て書いてみました〜
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(旅行のHP)
『コリアな日々…』
(註:いわゆる『北朝鮮マニア』じゃありません。政治的にもノンポリです。思想・政治的信条 無いです。60カ国行ってるうちの1カ国です。ただのバックパッカーです(汗;)

行先:朝鮮民主主義人民共和国 Democratic People's Republic of Korea 視察旅行の時期:2005年5月の7日間(北京経由)

今回の旅人:(株)Mグループの社長さん、同社の顧問・Kさん、同社の中国人社員・Sさん、
同社の農業(施設園芸)技術担当者・M坂さん、農業(青果)関連会社の社長・M野さん、それに僕(の計6名)


【プロローグ】 謎のベールに包まれた雰囲気の北朝鮮…。
 実は長い間、僕も多くの日本人同様、「とんでもない国だ…」と考えていた。興味を持ったのは、仕事(帰化、許認可や入管手続等)を通じ、在日コリアン(中でも朝鮮籍の特別永住者)の人たちと知り合い、いろいろな話を聞いてからだった。一般の日本人以上に、「拉致事件発覚」に本当に驚き、傷付いているのは 彼ら 在日朝鮮籍の人たちだということに、多くの日本人は気づいているだろうか…。 日本に住む彼らが、長い間 『ウリナラ』 『共和国』 と敬愛を込めて呼んでいた国・北朝鮮…。拉致事件発覚の後、国籍変更や日本に帰化する人が急増しているが、いまだ朝鮮籍を保っている人たちでも、誰一人 拉致を正当化しようなどと考えている人はいない(少なくとも僕の周りでは)。そのことをまず、ここに伝えておきたい。

 2005年、チャンスは突然、やって来た。 日頃からお世話になっている うちの事務所のクライアントさん・Mグループは、名古屋圏を拠点に、韓国人・中国人社員も雇用し 日中韓間のビジネスも展開している。また、北海道に農業法人も保有している。 2005年5月、この会社の社長さんが 農業関連ビジネスの視察のために行く 北朝鮮への出張旅行に、僕も連れて行ってもらえることになりました!

まずは北京へ   いよいよ平壌へ   平壌市内観光   万景台学生少年宮殿   平壌冷麺の話(仕込み中)

市場と物価   実はいい人だった監視員   平壌を離れる日   感想〜訪朝を終えて〜   おみやげ編


 今回のメンバーは、社長さん(在日コリアン・朝鮮籍)、顧問のKさん(在日コリアン・朝鮮籍)、中国人社員のSさん(中国国籍で朝鮮族出身)、農業技術者のM坂さん(日本国籍)、青果関連会社のM野社長さん(日本国籍)、それに僕(日本国籍)と、総勢6人。 在日コリアン2人、中国国籍1人、日本国籍3人 というメンバーだった
 当初、4月中に出発するはずだったのだが、この年の3月後半にあった日朝間の政治的何かが原因で、6人のうち日本人3人の北朝鮮ビザが出発前に下りなかった。3人分のビザ発給の目途が遅れ、出発は新潟→ウラジオストク経由にもなりかけたが、結局、GW中で北京経由 となったのだった。
【第1日目】 5月2日(月) 〜まずは北京へ〜
 朝8時、中部国際空港(セントレア)に集合。チェックイン時、6人のうち在日朝鮮籍の人2人の『再入国許可証』(朝鮮と国交の無い日本政府が、出入国時のために パスポート代わりに発行するもの)の見方を 航空会社職員がわからず、少し時間が掛かった(『在日コリアン』についてはこちら)。 『再入国許可証』は在日朝鮮籍の人の他、ベトナムやミャンマーの人などでも持っている人は多い。航空会社も、もう少し勉強しておくべき。 その後JAL便に搭乗し、約3時間で北京に到着した。

 北京空港に着くと、空が少しもやもやして見えた。5月〜6月は黄砂の季節だ。外へ出ると、柳の綿毛が空に舞っている。ポカポカとして、いい陽気だ。
 ミニバスが迎えに来ていて、ホテルへと向かった。日本から北朝鮮への直行便は無いので、必ずどこかを経由しなければならない。また、今回は在北京・北朝鮮大使館でビザを取得することになっている。ホテルは、北京でも大使館の多い地域にあり、真ん前にオーストラリア大使館もあった。休憩後、早速 北朝鮮大使館へ向かった。



上:在北京北朝鮮大使館前にて
今回は観光目的ではなく、農業関連の視察のための商用出張であり、ビザもそのためのものだった。
ここで無事、日本人3人、中国人1人のビザを取得。30分ほどで発給されたが、これはもちろん、前述の通り 事前に関係者の方々が準備してくれていたからで、いきなり大使館へ行ってビザをもらえる なんてことは無い(ご注意を)。(事前に履歴書や家族構成など、データを提出しました)。

ビザ(査証)はパスポートではなく、別の紙に押され(右写真の下⇒)、入国時に提出することになっている。イスラエル入国時のように、パスポート上に跡が残らない(註:イスラエルの場合は、イスラエル入国の跡があると 他のアラブ諸国へ行けなくなってしまうため、希望により 別紙に押してくれる)

 その後、全員で北京市内の大きなサウナへ出掛けた。 僕はサウナが好きではない(というより、なんで自分からあんな熱いところに入って行くのかわからない…)。社長と中国人社員・Sさんとは、去年も一緒に中国東北部(延吉、丹東など)を旅行したが、僕はサウナの度に、ひとり 抜け出して街中を歩き、単独行動をしていた(僕は元来、バックパッカーなのである)。

 だが今回は…。 中国人社員・Sさんに、初日からきっちりマークされていて抜け出すことが出来なかった。頭のいいSさんは、去年の旅行ですっかり 僕の性格を把握していて、

    「いいですか…? 先生(−o−;。 明日から ピョンヤンに入りますが…
        今回は 絶対に(−o−; 単独行動は しないでくださいね…」 と、最初に 釘を刺されてしまったのだ。

 僕も今回ばかりは、やはり 普通に旅行出来る国ではないし、だいたい渡航費用も全部出してもらってる身分だし、日頃から お世話になってる社長に 迷惑が掛かるし、単独行動はしない(つもりだ…)

 ともあれ、サウナの方はともかく、大きいお風呂はとても気持ちよかった。日本ではまずない という、『氷のサウナ』(半冷凍庫のようなところに入って身体を冷やす)なんかもあり、面白かった。その後 北京でも有名な海鮮レストラン(雲龍金閣大飯店)で食事をし、ホテルで明日の打ち合わせをし、眠った。



【第2日目】 5月3日(火) 〜いよいよ平壌へ〜
 朝、ホテルの近くを少し散歩した。北京 というより中国全土で反日気運が高まっていた時期で、5月4日(反日闘争・五四運動の記念日)の前日だったが、日本で報道されているほど 反日 の雰囲気は感じない。

 朝食後、全員スーツに着替え、北京国際空港へ向かった。 空港到着後、チェックインを始める。北京から平壌までは、Air Koryo などが週2便飛んでいる。

 乗員160名くらいの飛行機だったが、意外にも、いろんな国の人たちが乗っている。
ヨーロッパ系、アフリカ系、中東ムスリム系、中国やシンガポールの人たち。ロシアの軍人さんもいた。

←機内の様子(左写真)。

 座席の上の荷物乗せには、飛行機なのに カバーが付いていない! 電車の網棚みたい…(^^;。 トランクとか落ちて来たらどうしよう…とか考えているうちに、飛行機は約2時間で、ピョンヤン国際空港に到着した。



 飛行機のタラップを降りるとき、正面の空港建物が見えた。金日成主席の肖像画が大きく掲げられていて、そこはまぎれもなく、テレビで見たあの空港(小泉首相や金大中大統領が訪朝した際、テレビ・ニュースで流れた)だった(註:空港内は撮影禁止のため、写真ありません)。

 到着後のイミグレーションがけっこう大変だった。空港を出る前に、荷物のチェックがある。危険物、麻薬やポルノ雑誌などの持ち込みを阻止するためで、カメラやビデオなど、この入国時にきちんと申告すれば、問題なく持ち込める(基本的に、「空港や政府関係の建物、軍事施設以外なら 自由に撮ってもいい」と言われた)。ただ、携帯電話などの通信機器は、空港で預かられることになる(出国時に返却される)。 



 空港を出ると、車が3台待っていた。6人が分乗し、平壌市内へ向かう。
市街地まで20分ほどだったが、それまで 牧歌的な風景が続いた(左写真)。

道沿いには、畑もあり、牛を引いている人もいた。丘の上の梨の木畑が白い花を咲かせ、柿の木も植わっている。山羊を数頭 放牧している人もいた。

 市街地に入り まず驚いたのが、交差点の真ん中で婦人警官が立ち、交通整理をしていること。「基本的に信号が無い」国なのだそうだ。

 大きな通りに入り、やがて見えて来たのが、右写真の
 『千里馬(チョンリマ)』像。⇒

 市の中心部を抜け、普通江(ポトンガン)という運河に沿って車は進み、ホテルに到着。この時点で、午後3時くらいになっていた(日本と朝鮮とは時差が無い)。



←普通江(ポトンガン)ホテルのロビーにて(左写真)。左端が僕。

荷物を部屋に下ろし、ロビーで北朝鮮側(受け入れ側)の人たちとの 顔合わせ があった。 まず、通訳の女性 ウンさん。平壌外語大学で日本語を学んだ人で、富田靖子似の美人だった。
それに、今回の招聘機関(北朝鮮への商用出張なので、招聘機関は絶対に必要)である「朝鮮園芸総公司」の局長さん。

そして「案内役?」として「在日同胞○○援助局?(正式名称忘れた)」の中年男性1人。この「案内役」の男性だが、実は『監視員』みたいなものだった(後日談参照)。その後もう1人、同じ機関からの女性案内役(監視員)も加わったが、こちらは終始 陽気な感じの女性だった。

 平壌にはこれから4泊する。基本的に出掛けるときは、僕たち一行6人(うち3人は、朝鮮語も話せる)、通訳女性1人、案内役(監視員)2人と、全部で9人になり、車3台の運転手さんまで入れると 12人になった。 ちなみに、朝鮮語とは要するに韓国語のことなのだが(多少表現方法が違うらしい…)、ここではやはり、朝鮮語、朝鮮料理 などと使うことにする。



 荷物を部屋に下ろし、少し近くを散歩してみた。

  普通江(ポトンガン)の風景⇒

 ホテルのすぐ近くで、この辺りは気軽に散歩していた。この時期 新緑がきれいで、特に柳の木が、水に映えてきれいだった(昔から平壌は柳の木が有名で、「柳都」「柳京」などと言われることもあるらしい)。

 のどかな風景。河でカヌーをしている人、川向こうの公園では、スポーツや釣りをしている人も多かった。きれいなのだが、ちょっと川(運河)が匂うのが残念。これは大同江(テドンガン)に繋がる水門を閉じたためで、流れがほとんど無くなったためだそうだ。



【第3日目】 5月4日(水) 〜平壌市内〜
 朝、ホテルの近くを散歩していると大勢の人が公園に集まっている。通訳さんは、10月のアリラン祭の練習のためではないか と言う。朝食後、日本人3人のみ、平壌駅近くのデパートへ向かった。
 デパートの建物は、けっこう老朽化しているように見える。中は照明を落としていて少し暗めだが、商品が見えないほどではない(省エネにはいいかもしれない)。しかし、買いたいものが見つからない。普通の生活必需品ばかりで、おみやげになりそうなものはあまり無かった。

 その後、市内の万景台(マンギョンデ)へ向かった。
ここは故キムイルソン主席の生まれたところで、観光客は必ず連れて行かれるそうだ。敷地に入ると、すごい数の人がいた。休みらしく、地方からも子どもたちが修学旅行みたいな感じで大勢来ていた。陸軍の他、水兵さんたちもいた。

 藁葺き屋根の民家が、金日成主席と家族が住んでいた家(再現?)。すぐ横の記念碑の前に、人々が花束を捧げている(左写真)。 子どもたちの制服がかわいく(男女とも赤いスカーフを巻いている)、また、くったくなく「ハロー!」などと話し掛けてくる。

 凄い数の人だったので写真に撮りたかったのだが…。 例の「案内役」(監視員)に 「人が沢山いる方は撮ったらダメだ」 と言われた(- -; (別に撮ってもいいじゃないか…)

 この後 通訳さんに ダメ元で、「観光もあるなら、高句麗(コクリョ)の壁画も見てみたいです」と言ってみた。でも無理だった。高句麗の壁画は、保存状態の問題もあり中は普通の人は見れないそうで、通訳さんも入ったことは無い そうだ。
「数年前、日本の方が来られたときに古墳を開けましたが…」と言われ、チャンスあるかも…(^^) と一瞬思ったが…。
「その日本の方ってどういう人ですか?」と聞くと、「平山郁夫先生です」との回答だった (-o-; 。 ということで、壁画見学はあきらめました。



 ホテルで昼食の後、3時まで時間が空いた。一人で散歩へ。

 平壌には立派な地下鉄もあるようだが、庶民の足はやはりこのトラム(右写真。チンチン電車)やバスだ。詳しい人に聞いたら、車両はほとんどが東欧製のものだという。

 乗ってみたかったが、けっこう混んでるし朝鮮の細かいお金も持っていなかったし、大体、朝鮮語がわからないと どこへ行ってしまうかもわからないので止めておいた。およそ2時間でホテルまで戻らなければならないのがつらい。

←ピョンヤン市内の団地の入り口

 歩いていると、なにやら団地らしきものが見えて来て、入り口の塀の中へと人が吸い込まれて行く。

 うわぁ… 面白そう…(^^)。
 でも個人で歩き回るのはいけない国だし入るのは止めておこう…。
 と思っていたが、気がついたら団地の中にいた(右写真)。
  (僕は元来、バックパッカーなのである)

 団地の建物は少し古いが、皆 穏やかそうに暮らしていた。人民服のお父さん、赤ちゃんを抱えるお母さん、チマチョゴリを着た学生さん…。庶民の生活が見える。
 住民たちが(業者には見えなかった)、協力して建物のペンキ塗りをしていた。
 また、団地内共有の商店らしきものも見つけた。中に入ってみたが、食料品や飲料類、生活必需品しか置いていなかった。

 日本の団地と同じように遊具を集めたスペースなどもあり、子どもたちが遊んでいる。

 アジアの下町を歩いていると、よく 大人同士がケンカしていたり、なにか言い争っていたりする風景をしょっちゅう目にするが、平壌では後日も含め、そんなことは無かった。

 2時間で、ポトンガン・ホテルへ戻った。



午後は、今回の出張旅行の主目的でもある 平壌郊外の農場視察へ、全員で出掛けた。

   農場内を視察⇒
 その近代的な設備に まず驚いた。

 ちなみにこれは、観光ツアーではない。あくまでも商用目的の視察であり、あまり詳しいことは書けないのだが、こういうところを公開すれば、『食糧難』イメージも少し変わるのでは…? と思った。

←収穫風景

 近代的な灌漑設備もあり、きゅうり、トマト、葉物野菜などをつくっていた(左写真)。

 僕は家庭園芸なんかもやってるくらいで、農業には少し興味があるので面白かった(でも気持ち的にはやはり、こういう機械的なところより、土を耕してつくるほうに憧れるが…)。
  トマト収穫用の電動レール装置を発見⇒

 こんなものもあるので 本当に驚いた。オランダの技術・資本が入って出来たそうだ。
 トマトは数メートルまで伸ばして 収穫量をUPさせることが出来るが、人が立ったまま 装置を縦横に移動させ、楽に 効率的に収穫することが出来る。

 「実は向こう側に人がいて、ロープかなんかで引っ張ってるだけなんじゃないの〜?(-o-; 」 などと思う人もいるかもしれないが、ちゃんと電動式でした。 

農場には他に、中国の地方にもよくある半カマボコ型のビニールハウスもあった(こちらは、近代的 とは到底いえないもの)。
視察・交流の後、農場から 平壌市内へ戻った。



←基本的に信号の無い国

 滞在中、何度も見掛けた風景(左写真)。

道も広く 車も少ないので成り立つのだと思うが、交差点では婦人警官(稀に男性)が交通整理をしている。

一度だけ人が交替するところを見ることが出来たが、まるで衛兵交替のようだった(ビデオに収められなかったのが残念)。



  高麗ホテル(コリョ・ホテル)内で宴会⇒

 中国・香港から来ている投資家たちとも会食。

 北京から平壌に入るときの飛行機でも思ったが、意外にも、かなり多くの国の人たちが行き来しているようだ。



【第4日目】 5月5日(木) 〜平壌市内〜 


 朝 起きて、ホテル近くの運河沿いにある公園を散歩した。

 ところどころ、釣りをしている人たちがいる。きっとフナとか雷魚とか、そういうのが釣れるのだろう…。

 大体 清潔でゴミも少ない街だが、この日の公園は昨日の集団ピクニック(?アリラン祭?の練習後、グループごとにお弁当を食べていた)の後だったせいか、ゴミが多く汚かった。

 ホテルのロビーで、ドイツ人のキリスト教宣教師に出会った。中国・延吉にも宣教で行ったことがあるそうで、意外にも、平壌にも12,000人ほどのクリスチャンがいるそうだ。きっと 北朝鮮の教会か、キリスト教団体が招聘したのだろう…。

午前中、また農場へ向かった。

農場内建物での、コンピューターを使っての説明には驚いた。使ってるOSはWindows。




        ←主体(チュチェ)思想の塔

 午後、平壌観光には欠かせない、社会主義朝鮮のモニュメント、主体思想塔へ。

 主体(チュチェ)思想は、千里馬(チョンリマ)運動などと並び、故 金日成主席が提唱した朝鮮型社会主義建設のための思想。

 塔は市内の中心部にあり、展望台になっていて平壌市内を一望に見渡せる。
 主体(チュチェ)思想塔の下の広場にて、
 記念撮影(右端が僕)⇒

 後ろの大同江(テドンガン)を挟んで 奥に見えるのが、人民大学習堂

 人民大学習堂の前には、ニュースでよく映像が映し出される キムイルソン広場 がある。

←主体思想塔の上の展望台から見た、ピョンヤン市内。

左の川が、大同江(テドンガン)。

塔の上では360度、市内を見渡すことが出来る。

市内360度を ビデオで撮って来ました(撮影も問題ありません)。



  万景台学生少年宮殿へ

 夕方、万景台学生少年宮殿に入った。ここは市内の子どもたち(確か小学生と中学生)が、学校後に様々な技能やスポーツを学ぶカルチャー・センター的なところだった。
 学生が中を案内してくれる。

子どもたちの様々な習い事…
   ↓

伝統音楽、伝統舞踊、バレエ、ピアノ、囲碁、刺繍、ピアノ、水泳、テコンドー、コンピューター等々。全て無料 というところは、社会主義ならではだと思った…。

週1回(?)、見学客のために解放されている。

市内には小中学生のためのこういう場所が、数カ所あるらしい。

←万景台学生少年宮殿の中のショー

週1回(?)、子どもたちによるショーを見ることが出来、外国人観光客も多く来ていた。普通の学校の生徒達も、先生に引率されて見学しに来ていた。

曲芸、舞踊、合唱…。
すごい内容だった(1時間くらい)。


 その後 ホテルへ戻り夕食。

 小雨にけむる、平壌駅⇒

 レトロな感じの建物で、目印になります。



【第5日目】 5月6日(金)

  市場(シジャン) 冬は寒くなる地域のためか、市場は建物の中にある⇒
 ここも、外の建物はいいが、内部の人でごった返してるところは「写真撮影出来ない」と 監視員に言われた。市場など、活気のあるところこそ、写真に撮りたかったのだが…。

 中はすごい人の数で、活気に満ちていた。意外と物価(言い値)は高いようだ。中国朝鮮族出身のSさんが朝鮮語で値段を聞いても、スイカ 一玉 2,000円 みたいなことを言われた。

どの程度人々が値切って、どの程度の金額で買って行くのか知りたかったが、なかなか難しい(物価の予想がつかない)。
 少し値切り交渉などしてみたが、結局何も買わなかった。 大体、なにもかもが 「必需品」 過ぎるのだ…。

 混み合った市場の中でも、案内役(監視員)はぴったりと付いて来ていた。
僕が中で 写真を撮りまくる と思ってたらしい…(どうしてわかったんだろう…(^^; )

←監視員2人に捕まった筆者(市場の入り口付近にて)

 この後、市内の 大使館が多く集まる地区内にある、外国人(大使館員とその家族)用のスーパーマーケットへも行った。食料品を中心に いろいろな外国製品が売られていて、大型冷蔵庫や大型モニターのテレビなども売られていた。



←金日成(キム イルソン)主席の銅像

後ろにあるのが、朝鮮革命博物館。白頭山(ペクト山)の絵が描かれている。

銅像前には新婚カップルたちも来ていて、ビデオなどを撮っていた。

街中でも、いたるところで金主席の肖像画などが掲げられていたし、北朝鮮では全ての国民が、キムイルソン・バッヂを付けていた。

【キムイルソン・バッヂの話】
 ちなみにこのキムイルソン・バッヂだが、去年中国延辺へ行ったときには、中朝国境の街(図門など)のおみやげ物屋で、いくらでも売られていた(偽物だが…)。平壌では当然 本物を たくさん売っているのだろう と思っていたが、実はどのお店でも扱っていなかった。
 「これは朝鮮国民のためのもので、売り物ではありません」というのだ。 いろんな人に聞いたが、やはり今は、外国人が手に入れることは出来ないらしい…。
 そんなこと言われても… 去年中国でお土産として買って来たバッヂは、全て人にあげてしまったし…。



 ポトンガン・ホテルへ戻ったところで、また2時間半 時間が出来た。ホテルの1階のロビーでは 案内役(監視員)がお茶を飲んでいたが、人と話していてこちらに注目していない。チャンスだ。

 「ちょっと散歩に行って来ます」と言って抜け出し、歩き始めた。目指すは ピョンヤンの中心地、キムイルソン広場だ(僕は元来、バックパッカーなのである)。一応 地図もあるし、車での移動中に 街の概要を頭に入れておいたので迷いはしないと思った。

ホテルから20分ほど歩くと、公共の(みんな公共なのだろうが…)建物が集まるエリアに出た。

←平壌体育館前の広場

広場には凄い数の人がいて、なにかの練習をしていた(左写真)。
マスゲームか、なにかの式典のための練習だったのだと思う。
    人民文化宮殿⇒

 社会主義国にはこの手の建物が多いと思う。

 ちなみに街中の雰囲気は、むか〜し行った ポーランド・ワルシャワの市街地(まだマクドナルドが2店舗くらいしか無かった頃の…)のようだった。
普通門(ポトンモン)
 古い時代のものだが、現存するものは戦争(朝鮮戦争)で焼けた後、復元されたもの。

 この辺りまで来て、時間が足りなくなりそうなので仕方なく西へ曲がって普通橋を渡り、普通江区域を通ってホテルへ戻ることにした。

 建設途上?の 柳京ホテル 前を左折し、市街地を歩いて行った。
  平壌市普通江区域 烽火通り辺りの交差点 ⇒

 主体思想塔下の売店で買った平壌市の地図は、古いためか あまり正確ではなかったが、
「あれ? こんな道 載ってないぞ…(-o-; 」とか迷いながら 市街地を歩くのも、けっこう楽しい。

 街中で若い人に道を聞いたりしたが、若い世代の人たちは少し英語も理解するようだ。一所懸命、道を教えてくれたりした(年配の人たちは、あまり外国人を見たことが無いのか、話し掛けても逃げてしまう人がほとんどだった)。

2時間半ほど 街中を歩き周り、普通江ホテルへ戻った。 あと2時間あれば…キムイルソン広場にも 徒歩で行けたに違いない…。



【実はいい人だった 監視員 】
 ピョンヤン滞在中、男性の案内役(監視員)の方はずっとうるさかった。「人が大勢いる方に向かってカメラを向けてはいけない」とか、僕が気に入らないことばかりを言い、自由行動を阻んで来た。でも、今回は『商用』ということで連れて来てもらってるし、社長たちに迷惑が掛かるしケンカする訳にもいかない…。
 そこで、レベルの低い仕返しだが、どさくさにまぎれて何度か足を踏みつけてやったり、タバコを吸う人だったので 食事のとき 灰皿を隠してやったりした( レベルひく… (-o-; 。小学生か… )

 しかし… 平壌を発つ前夜のことだった。

 監視員がなんと、「あなたはキムイルソン主席のバッヂをずっと欲しがっていた。あなたは朝鮮のことを よく知ろうとしているし、明日朝の出発までに、なんとかバッヂを用意しましょう。」
 「もし 明日までに 手に入らなかったら…。 本当はいけないのだが、私のバッヂを差し上げましょう」
と、言って来たのだった!

 他の受入れ側(北朝鮮側)の人たちは皆 いい感じの人だったのだが、古臭い感じのする この男性監視員だけは嫌いだった。しかし僕は、 この監視員が言った「本当はいけないのだが…」というところに、なにか人間的なものを感じることが出来た。

 なぁ〜んだ。けっこう いい人だったんじゃないか…(^^;。 滞在中、足を踏みつけたり 灰皿を隠したりして、少し悪かったかなぁ… と、反省した。思えば、写真も基本的には撮らしてもらえたし、「カメラを向けると 怒る人もいるので…」とか言ってたし、そう悪気は無かったのかもしれない。

 その後、「ありがとうございます。その言葉だけで充分です。バッヂは要りません」と言おうとしたのだが、「ありがとうございます。バッヂを楽しみにしています」と応えてしまった(汗;。



【第6日目】 5月7日(土) 〜平壌を離れる日〜
 早朝、ホテルで朝食をとり、空港へ向かう車に乗り込んだ。 車に乗るとき、案内役の人たちが、昨夜の話に出た「キム イルソン・バッヂ(下の「おみやげ」の写真参照)」を、僕に手渡してくれた。バッヂは数種類あるのだが、もらったのは通訳さんや案内役の人たちも付けていたのと同じ種類のものだった。
 通訳の女性、案内役2人、招聘機関の人なども見送りに来た。 セキュリティ・チェックを済ませて空港内に入り、入国時に預けさせられていた携帯電話を返してもらった。
 出国のチェックを受け、お世話になった人たちに手を振って挨拶をした。

 空港で Air Koryo(高麗航空)機に乗り込んだ。入国時、同じ飛行機に乗っていた人たちが大勢いる。便数が少ないため、重なるのだろう。

 空港内は撮影禁止だが、携帯電話をいじっていたら、誤って(大汗;) シャッターを押してしまっていた。 (右写真は、“偶然”にも (-o-; 写っていた、平壌空港の写真⇒)

 やがて 飛行機は離陸し、1時間半で中国・北京に到着した。⇒ 北京編へ(工事中)

 わずか4泊5日のピョンヤン滞在だったが、少しだけ この国のイメージがつかめたように思う。



【感 想】〜訪朝を終えて〜

 たった4泊5日、平壌とその郊外のみの訪問ではあったが、今まで丸っきり想像もつかず、メディアの報道でしか見ていなかった北朝鮮について、少しイメージをつくることが出来た。核問題や拉致問題や、問題の多い国なのは事実だと思うが、『報道されているイメージ』とは大きく違っていた。自分の目で見ることが出来て、良かったと思う。

 まず、人々についてだが、皆 ちゃんと食べているように見えた。街を歩く人たちの血色は良く、衣服も決して高級なものではないが、清潔な感じがした(白い服・チマチョゴリやシャツなど白いものを着ている人が多いので、ちゃんと洗濯しているのがよくわかる)。途上国のスラム街など、「着の身 着のまま」でよごれた服装の人たちを多く見掛けるが、平壌ではそんなことは無かった。
 街中を僕1人で、通算で5〜6時間は歩き回り、その間 観光客が行かないところまで入ってみたり、若い人たちに道を尋ねてみたりもした(年配の人たちは大抵 逃げてしまうが、若い人たちは一所懸命英語をしゃべって教えてくれたりした)。街中に落ちているゴミも気になるほどでは無く(ただ、ピクニックの次の日の公園は汚かった)、建物は古いが公園や川沿いの緑も多く、社会主義的な簡素さがあり、全体的に清潔な感じがする都市だった(十数年前に行ったポーランドのワルシャワと、雰囲気が似ていた)。

 「それは特権階級の住む 平壌 だからじゃないの…?」 「地方に行けばみんな、餓死寸前なんじゃないの?」 「いいところばっかり見せられて来ただけなんじゃないの?」 などという意見もあるだろう。

 たしかに、平壌市民は地方(取り分け辺境)に比べれば恵まれていると思う。しかし、例えば 公園で多くの人たちが家族や仲間ごとに輪をつくって座り、お弁当を食べているところなども見たが、食事の内容はとても豊かで、あれだけ見てると「食糧難」とは思えなかった(以前、名古屋で 韓国人の人たちとピクニックへ出掛けたときも、皆 ものすごい品数を準備して来たことがあった。朝鮮半島の人たちの食性文化は、「一汁一菜」の日本人とは大分違う)。
 「ピクニック」というよりは、何かお祭りの練習の後に外で食べていた感じだったのだが、食事をしていた大勢の市民たちは、別に高級外車で乗り付けてくるような『特権階級』ではなく、自転車や徒歩で集まって来るような人たちだった。

 帰国後、北朝鮮の写真をいろんな人に見せているが、中には「牛が歩いてる…」「山羊が歩いてる…」などと驚く人もいた。豚や犬 (^^; も含め、朝鮮民族が食べるもの(動物)が人のいる街や村を(食べられずに)うろうろしているなど、食糧事情からして考えられなかった と言うのだ。『食糧難』のイメージが、いかに大きいかがわかる。

 また、現地で北朝鮮の人に、こういうことも言われた。
「中国でも、内陸部の10%ぐらいの人たちは、食べれないで飢えている人たちもいる。朝鮮にも、残念ながら飢えている人たちがいることは認めるが、そういう人たちばかりではない。日本は何故、悪いところばかりを報道するのか?」ということだった。 たしかに、今 日本で中国について報道される場合は、「上海や北京の『大発展ぶり』を伝え、『今や日本並み。いや、日本以上だ…』といった論調のものばかりで、後れた内陸部について取り上げられるケースは稀だ。

 昨年、中国吉林省の延吉(北朝鮮に接した、延辺朝鮮族自治州)で、北朝鮮から流れて来たと思われるホームレス?の子どもたちを見た。汚れた服装で、皆 食事もしていない様子。顔も痩せこけていた。だから決して、北朝鮮国民が全員 食べれている とは思わないし、飢えている人たちを見過ごしていてもいい などとも思わない。また、北朝鮮が国としてやっていること(拉致問題への対応や核開発など)も確かにおかしいし 改めて欲しいと思うが、日本マスコミの報道の仕方は、「あまりにも偏り過ぎではないか?」とも思う。
 ちなみに、帰国後 こんなことばかり話している僕は、周りから「洗脳されて 帰って来た」と言われている(^^;。


 名古屋に戻って後、北朝鮮の写真をいろんな人たちに見せている。やはり というか、一番 一所懸命 写真を見てくれるのは 韓国(ニューカマー)の人たちだ。分断された同胞の国、いまだ“休戦状態”にある国 ということで、良くも悪くも感心が高いのだろう…。特に男性は、兵役時 国境地域に配属されていた人などもいて、北朝鮮(韓国では『北韓』と言う)内部には興味津々のようだった(ちなみに、韓国国籍の人が北朝鮮へ行くことは、日本人以上に難しい)。
 『統一』については、韓国人の中にも 様々な考え方があるようだ。「同じ民族だから…」と言う人もいれば、「社会が違い過ぎてうまく行かないから、(統一)しない方がいい」などと言う人もいる。『統一』については、隣国の中国政府もピリピリしてるようで(国境地帯の朝鮮族の人たちへの影響・分離独立運動への影響)、いろいろ複雑な問題があるらしい…。
 僕はといえば、『分断』に少なからぬ責任が有る日本人の一人として、やはり 将来的には統一(平和的に)して欲しい… と考えている。

 帰国後2カ月経った7月7日、『コリア・レポート』編集長 辺 真一(ピョン ジンイル)氏の講演が名古屋であり、聞きに行った。朝鮮半島の将来展望など、お話されていた内容は 現実的な考えに沿っていて、とても納得が行くものだった。
 日本の『経済制裁』についても、いろいろな意見があるらしい…。僕はといえば、賛成・反対とかいう以前に、去年、中朝国境(丹東)で中朝間の根太い経済交流を目の当たりにして来たので、経済制裁の「効果」自体について 疑問 である。



 今回、テレビや新聞だけでなく、自分自身の目で見ることが出来て、本当に良かった。
思えば、北京もそうだった。
 この時期、日本ではちょうど 中国内の反日暴動が大きく伝えられ、上海日本総領事館への投石や日本料理店打ちこわしなど、中国内での激しい反日の動きが大きく報道されていた。 しかし、まさにその時期に天安門広場などへも行ったが、デモ当日の現場を除き、穏やかな雰囲気だったようだ。時期も時期だし、北京の土産物屋に、「反日デモ Tシャツ は売ってるか?」と聞いてみたが、「没有」との回答だった。
 後日 中国在住の日本人にも聞いたが、この時期に外の食堂で普通に食べながら、店のテレビ(反日暴動のニュース)を他の中国人客や店員と一緒に、笑いながら見ていたそうだ。案外、そんなものなのかも知れない。

 実際見てみたら違っていた… なんてことは、他にも沢山ある。 僕にとって、アメリカもそうだった。
 カリフォルニア州(サンフランシスコ)に3年弱住んでいたが、行く前はよく周りの人から、「アメリカなんか住んだら殺されるぞ」とか、「サンフランシスコなんか住んだら ゲイにレイプされるぞ」とか(^^; 、いろんなことを言われたものだ。住めばわかるが、時間や立ち入る場所、行動を考えていれば アメリカの都市部も それほど危険という訳ではないし、ゲイの人たちも別に、イコール危険な人たち… などとは思わない。

 更にいえば、名古屋だってマスコミや書籍の影響で 相当の誤解(風評被害)を受けている…。
 僕は東京で生まれ育った。名古屋圏出身の妻と結婚した後、1995年末頃から名古屋圏に住み始めた。 名古屋の人たちには想像もつかないだろうが、名古屋といえば東京(や他の地域)では、「ものすご〜く閉鎖的なところ」「出る杭は必ず 打たれるところ」「よそ者は10年経っても馴染めない」「車線変更時、トヨタ車でないと(よそ者だと判断され)割り込みさせてくれない…」などなど、はっきり言って住みたくなるような事前情報は一つも無かった。お陰で長いこと名古屋は、『転勤したくない街 NO.1』 だったそうだ。
 こんな訳で、僕も住む前はかなりビビッていたのだが、実際に住んでみると そんなことは無かった。オープンな人も多く 友だちも沢山出来たし、目立つことをやってる面白い人たちも沢山いる(註:名古屋については、愛知万博『愛・地球博』で名古屋を訪れた多くの人たちが、そういった誤解を解いてくれたものと期待している…)。

 主としてマスコミによって、先行するステレオ・タイプのイメージがつくられがちだが、当たっている部分もあれば そうでない部分もある…という感じで見ておくのが、いいのではないだろうか…。

 今回、いい訪朝の機会を与えてくださった関係者の方々には、とても感謝をしている。(完)
 



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〜おしまい〜

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おみやげ編
  ピョンヤンで買って来た、おみやげの数々…。
 「買うもんが無い」とか言ってたわりに、けっこう持ち帰って来てました(^^;。

(←左写真)右から時計回りに、娘(4歳)用に買ったチマチョゴリ(海をイメージしたもので、貝殻や魚の飾りまで付いた、凝ったデザインのもの)、スリッパ、年代を感じさせる主体思想の本(ハングル)、バッヂや小さい飾り、英語の紹介パンフレット、冷麺チェンバン(北朝鮮独特?の冷麺を食べるときの器)、コチュジャン(平壌のは有名らしい)、絵葉書、朝鮮音楽のCD(「パンガプスンニダ」の曲も入ってるもの)、平壌市の地図、そして下に敷いてあるのが 朝鮮半島の大きな地図。

(右写真→)各種のバッヂ、飾り。(統一された?)朝鮮半島をかたどった青い飾り(右写真参照)には、ちゃんと済州島や竹島(独島)まで付いていて感心した。


↑各種バッヂ、飾りなど。

他に、買っては来なかったがお酒類も多かった。各種焼酎、ビール、ブルーベリー酒 など。



おまけ
 またまた買って来てしまった、娘のための民族衣装…(−−;。 うちは民族衣装が好きで、旅先でよく この手のもの を買ってくるのだ。
チマチョゴリ、かなり 気に入ってくれたらしい…。でも 毎回 思うのだが…
   どこで 着せればいいんだぁ〜〜!! (ToT)
☆名古屋の韓国料理屋さん、韓国系・在日系企業の皆さん、イベントのときとか、娘ごと貸します(無料です。服だけの貸出しは不可)。
(ちなみに下の写真は、2002年、ソウルで買って来た韓服(ハンボク)。女の子用と男の子用。このバージョンもあります↓。)  ⇒ 『韓国総領事公邸パーティー参加報告』へ

コリアな日々…
(韓国関連ページ)
『ピョンヤン・リポート』 この目で見て来た北朝鮮 (バックパッカー ピョンヤンをゆく…)
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(旅行のHP)