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【前編】
吉林省延吉・
遼寧省丹東編へ
(第1日目〜5日目)
中国東北部(遼寧省・吉林省)の旅
【後編】遼寧省瀋陽・海城・大連編 

〜父の生まれ故郷(旧満州)を訪ねて〜
旅行の時期:2004年2月後半の8日間 行き先:中国東北部(遼寧省、吉林省)
今回の旅人:M工業グループのH山社長さん、中国人社員のSさん、僕(の計3名)
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【プロローグ】 前から行きたかった中国東北部。僕の父親はこの辺り(現在の遼寧省海城。旧満州)の生まれだし、子どもの頃 父から聞かされていた『満州の大平原』というのを、一度は見てみたかった。
 2004年冬、日頃からお世話になっているM工業グループ(うちの事務所のクライアントさんで、韓国人・中国人社員も雇用)のH山社長さんが、ビジネスのついでに連れて行ってくれることになりました。
〜後編スタート〜
【第5日目】 午後、北朝鮮国境のある都市・遼寧省丹東市を車で出発し、4時間後、大雪の中、遼寧省の省都・瀋陽市に到着。瀋陽北駅の真ん前にある、瀋陽グロリアホテル(鎧莱大酒店)に宿泊した。


【第6日目】朝、僕一人早起きして、瀋陽北駅に入った。昨晩の大雪で、駅前も雪が積もっていた。前日の晩、切符の買い方のシステムはホテルの人に聞いておいたので迷わずに済んだ。

 駅の入口には、乗客の荷物をX線のようなものでチェックする装置もあり、意外と厳重だった。駅構内の、南(大連方面)へ向かう列車の発車待合室に入る(左写真)。軍人さん専用の待合スペースなんかもあった。周りの人たちの真似をしてひまわりの種とかつまみを買い込み、車内(硬座)に乗り込んだ。

   列車(中国では火車と言います)の内部(右写真)⇒
   片道3時間で、硬座 1人10元(150円くらい)

 周りの人たちは、僕が外国人なのでかなり興味を持っているようで、しばらくすると僕の日本語のガイドブックを覗きこんで来たりした。向かい合った6人掛けの席の人たちと筆談で話した。やがて、持ち込んだつまみやお菓子の「勧め合い」が始まった(買っといてよかった)。

←列車は街中を離れ、川を渡り、やがて平原が広がって行った。

 「遼寧省は意外に山が多い」と、飛行機から見たときには思ったが、鉄道は平原を縫うようにつくられたのか…。北海道・釧路に似た風景が続いた。⇒

 列車は遼陽、鞍山と過ぎて行く。 この辺り(旧南満州)には、戦前 多くの日本人が移住していた。鞍山には有名な鉱山もあったし、港町・大連や旅順にも比較的近い。

 僕の父とその家族も、移住先がこの、満州の南の方だったため、敗戦時、当地を脱出して日本へ逃れることが出来た(それでもかなり大変だったようだが)。

 ←瀋陽から3時間。海城(ハイチョン)駅に到着。駅前にて。
 父はこの地域で生まれ、敗戦時(8歳)まで過ごした。

    駅前広場にあった、なにやら古めかしい建物⇒
    満州国時代から残っているのだろうか…。
    この建物の地下は、今は大きな市場になっている。
 

 ここ海城市は、現在 鞍山市の中に入っている(中国では、市の下に『市』や『県』が入っていたりする。ちなみに市と県の関係は、日本と反対)。 鞍山市の人口は、約330万人。中国は人口が多い。聞いたことが無いような都市でも、人口を聞くと「140万人です」とか平然と言われてびっくりすることがよくある。

 歩いていて、団地の中を通っていたら幼稚園(保育園?)を見つけた(右写真)。中国は共働きが多いので託児施設は充実してるようだが、一方一人っ子政策の影響か、けっこう金額を取られるらしい(子どもが一人であっても)。

←駅から北の方へ向かって歩いてみた。
 日本(特に本州)では見ない風景だ。
 「父はこういうところで生まれたのかぁ…。」

僕はもし、戦前の日本に生まれていたら、
絶対に満州へ行って 大陸浪人 になってたと思う(なんのこっちゃ…(^^;)

だから自分のルーツの一つがここ『満州』にあるのは誇りに思うが、
決して、明るい歴史があった訳ではない。

満蒙開拓団について
 昭和7年(1932年)に建国された満州国(満洲国。現在の中国東北部三省と内蒙古自治区の一部。中国では偽満洲国と言われている)は、言わずと知れた日本の傀儡国家だったが、日本にしてみれば国を守る上での生命線と位置付けられていた。資源確保だけでなく、ソ連に接した『防共』の最前線であり、日本は国策として、日本の農民(疲弊した地域の農民が多く、中でも長野県出身者が一番多かった)を多く満州へ移住させた(国の主権が曖昧、危うい状態の土地に、国策として自国民を移住・定着させる例は他にも沢山ある。イスラエルの占領地への入植、中世ドイツの騎士団領 等々)。
 この旅行の直前、2004年2月に新作の映画『赤い月』(なかにし礼原作、降旗康男監督、常盤貴子主演)を映画館で見た。本当は隣りで上映していた『ラスト・サムライ』の方を見たかったのだが…。 中国東北部へ行く前にお勉強 ということで『赤い月』の方を見た。映画の中で、満州北東部の牡丹江に移住し成功した日本人家族の家庭教師(ロシア人女性)が、ソ連のスパイとして殺されるシーンがあった。満州北部にはロシア革命(1917年)以来、多くのロシア人も移住していたため、日本は開拓団に、ロシア人(ソ連の)スパイをあぶり出すことや、また、中国人の革命(反体制)ゲリラをあぶり出すことも期待していた。
 と、このように この時期の満州には、元々住んでいた満州族、モンゴル族に加え、漢民族、日本民族、朝鮮民族、ロシア民族…と、僕からすると、何やらバラエティに富んでて楽しそう…(^^;にも一見思えるのだが、実はかなり緊張した、一触即発の雰囲気だったらしい。

 前述のように、満州は満州でも、南の方(現遼寧省)にいた移民たち(僕の父とその家族も)は、まだ幸運だったと思う。肉親の多くが死に、孤児となって中国人親に育てられた中国残留孤児は、多くの場合 ソ連国境に近い旧満州北部(現黒龍江省)の出身だ(もちろん、遼寧省・吉林省や、中国東北部以外の出身者もいるが)。
 満州北辺(現黒龍江省)に入った開拓団は、敗戦時 特に悲惨だった。終戦間近にソ連軍が参戦し、ソ満国境を越えて攻めて来たが、彼ら日本人開拓団を守るはずの日本軍(関東軍)は、既に開拓団保護を放棄して南下していた。満州で開拓団の中から徴兵された日本人兵士も、多くは満州防衛ではなく、太平洋戦線へと送られていた(つまり日本は、日本本土の防衛しか頭には無かった)。満州に残されていた多くの子女・老人は終戦直後の混乱時に死に、多くの婦女が暴行され、主として関東軍が中国で行った残虐な行為の報復を、民間人である開拓団が受けることとなった。そしてその中で、運良く中国人親に引き取られ、育てられた子ども(中には労働力として買われた子どもも)が残留孤児、女性の一部が残留婦人となった。
 今、多くの中国残留孤児の人たちが、日本政府に対し保証・慰謝料・謝罪などを求めている。「勝手に豊かさを求めて自分から移住して、運悪く戦争で帰って来れなくなっただけじゃないか。可哀想なのは認めるが、どうしてそんなに優遇してやらなきゃならないのか…」といった声もあるそうだが、上記のように国が『国策』としてどんどん送り込み、いざ戦争になれば成年男子のみ徴兵し、多くの老人や子女が国境地帯に置き去り・見殺しにされたという事実から考えると、政府がどれだけ保証・謝罪しても足りないのでは…?と思う。



 この時期、鳥インフルエンザが流行していた(2004年2月)。鶏とアヒルがごっちゃ混ぜに飼われていて、かつ人家と接するような場所が危ない…とかニュースでやっていたが…
まさしくそのとーり(−o−; のところを発見してしまった(右写真)⇒
 見えにくいですが…人家の軒先で、鶏とアヒルが放し飼いにされているのがわかる。5メートルくらいまで近づいて写真を撮り、そこを離れて駅へ戻った。


 その後 海城駅で、名物の海城焼餅(シャオビン)という、挽き肉や野菜を小麦粉の皮で包み、油をひいて焼いたものを食べた。これこそ日本の焼き餃子のルーツじゃないか?と思った。日本の焼き餃子は満州帰りの人たちが広めたそうだが、そもそも中国の餃子は水餃子で、焼き餃子は無かった。日本に帰った人たちが、満州風にアレンジして餃子を焼いたのかな…?(想像)。

 駅から北へ向かう列車に乗り、再び瀋陽へ戻った。
 3時間後、瀋陽北駅着。駅前の『吉野家』も、その隣りにあった『美国加州牛肉麺大王(アメリカ・カリフォルニア州の牛肉麺店チェーン)』も繁盛していた。この時期(2004年2月)の少し前、アメリカで狂牛病の牛が1頭発見され、日本では牛丼チェーンが相次いで牛丼の販売を中止していた。ほとんどがアメリカからの輸入牛肉だったからだ。
 だが中国の人は… 全然気にしていないらしかった。「日本人は神経質だ。だって、たった1頭出ただけでしょ?」と、中国の人に言われてしまった。 前述の鳥インフルエンザといい、中国はスケールが大きい(?)国だ。



瀋陽北駅でH山社長一行と再び合流し、市内の『9.18事変博物館』へ向かった。
1931年9月18日、柳条湖で満鉄線路が爆破され、日本(関東軍)はこれを口実に軍事侵略を開始した(満州事変)。
『9.18事変博物館』は、この前後から、日本との戦争が終わる1945年までの貴重な資料が展示されている場所。
 国民党・蒋介石と張学良(日本軍に爆殺された軍閥・張作霖の息子・後継者)との会談シーンなど、現代中国史の重要な場面を再現したスペースがある。日本軍による残虐な殺戮シーンの写真などもある。 ここに H山社長(在日コリアン)、Sさん(中国国籍)と3人で入った僕は、ただ一人『加害者側』の遺伝子を受け継ぐ人間だったため、片身が狭かったのでした。
 日本では一つ一つの事件につき、「いや、あれは中国側の捏造だ」とか言う声もあるらしいが、そんなことを言っててもなんの進展も無い。

 その後市内を移動し、3人で瀋陽タワーに上って、展望スペースから瀋陽の街を眺める(右写真)。タワー上部で外に出たが、ものすごい強風が吹き立っていられないほどだった。体感温度はマイナス何十度だろうか…。
 2月。川が完全に凍っているのが見える。夕陽の真下ぐらいに、後金のヌルハチ(清朝の太祖)が建てた、瀋陽故宮(現在は博物院)がある。
 
 その後、H山社長、Sさん、僕、それに、瀋陽を案内してくれた中国人運転手の韓さんも一緒に夕食を食べに行った。またまたご馳走。店には 豚の鼻の煮付け なんかもあった。

 その夜は、中国人運転手の韓さんも一緒に、みんなでカラオケやサウナへ行った。H山社長は運転手である韓さんが気兼ねなく飲めるように、ちゃんと車まで用意していた。 やはり成功するタイプの人は、よく気がつく  (ちなみに僕は…  いつも言われてから気がつくタイプだ…(ほっとけ!(^^;)

 帰り道、瀋陽日本総領事館の前も通った。この少し前、北朝鮮の脱北者が駆け込んで大騒ぎになった領事館だ。でも今は、隣りのアメリカ総領事館とセットで警備を強化し、誰も侵入出来そうになかった。



【第7日目】瀋陽を離れる日だ。朝、運転手の韓さんがホテルへ迎えに来て、空港へ向かった。前の晩けっこう飲んでたのに、運転は確かだった。 空港へ行く道沿いには、立派な真新しいビルやお洒落な新興住宅街なんかが見えた。この国はどうなるのだろうか…。 空港内は更に立派だった。中国製のカッコイイ新車が飾ってある。けっこういい値段なのに、今、中国ではこんなのが飛ぶように売れてるらしい。

←鹿の剥製が飾ってあった、瀋陽空港内のおみやげ屋
鹿茸、高麗人参、熊の肝 は東北三省を代表する名産品。中国内でも、他の地域の空港では、こういうのはあまり見ない。


 空港建物から飛行場・滑走路へ降り、少し歩かされた。 しばらく行って、「え!?(−o−;」。

←サーッと(−o−;自分の血の気が引くのがわかった。超小型プロペラ機(パイロットを入れても12人乗り)に近づいたのだ(左写真)。

 むか〜しアメリカのグランド・キャニオンでセスナ機に乗ったが、そのときマジで死ぬかと思ったことを、思い出した。パイロットがサービスし過ぎだったのだ(誰が「アクロバティックに飛べ」と言った!?(−−;)
意を決して乗り込むと、中はタクシーに乗り込んだかのような狭さだった(上右写真)。
1時間以上飛んだだろうか…。 大連空港に到着した。大連ラマダ・ホテルにチェックイン。



午後、大連で、仕事に関する調査をした(おまけ)。

←大連市公安局の建物

日本でいう警察だが、日本の警察よりも取り扱う範囲は大きい役所。
戸口簿(日本の戸籍に近いもの)管理もここで行っている。

  大連市労働職業訓練センター⇒

 調理師、技術士などの技能保持者であることを証明する、『職業資格証書』という資格証を発給する役所。 日本の入管提出用の偽造証明書類が多いので、発給元役所を訪ねてみた。ここで取った資格は更に省都で厳正に審査される。結果、偽造証明書類は大幅に減って来ている。

 日本総領事館在大連出張駐在所へ。
中国国内には香港も含め、7ヵ所の日本の在外公館がある。香港は例外として、各総領事館の管轄範囲は広い。だが大連の公館は、なんと大連市のみを管轄している。いかにここ大連に、日本人・日本企業や現地法人・日本人駐在員が多いかがわかる。

←大連市中心部に位置する、労働公園
きれいな公園だった。大連はサッカー・チームが強くて有名。そのせいか、巨大なサッカー・ボールのモニュメントがあった。 公園の上から見下ろす大連の街並みは、本当にきれいだった。

僕は中国人の人と仕事柄よく話すが、中国の南の方の人たちは上海に、北の方の人たちは大連に住みたい という人たちが多いと思っていた。来てみてわかったが、大連は神戸のようなところ。人気があるのも納得出来る。 

 そしてまたまた最後の夜に…
   乾杯(カンペー)(大連の高級中国料理店『金裕』にて)

 名古屋圏で中華料理チェーン店『海○館』を経営する、大連出身のO社長の紹介で、前述の『公安』の人とも会えた。
 中国はやはり、人間関係(コネとも言う)の国なのだ。

 パイチュー、ビール、水割り…。 最後の最後まで、飲みまくりの旅だった。でもここは中国。これが常識なのだ。 ちなみに、帰国後 妻に写真を見せたが、「飲んでばっかりじゃない!」と怒られてしまった(^^;。
 「いやいや、これも人脈づくりに欠かせないことなんだよ」 とか言っても、一向に信用してもらえないどころか、言ってる自分が白々しく感じられたのだった。 



【第8日目】(帰国日)朝早く、大連空港へ車で向かった。そのまま飛行機へ。H山社長はもう日本での仕事モードに入って書類に目を通していた。Sさんは日報を書いていた。そして僕は帰りの機内で、「今度は胃薬も持って来よう」と、固く心に誓ったのだった。

完  おしまい<(_ _)>



この旅で認識した教訓@: 中国は広く、人口も多くパワーがある。
この旅で認識した教訓A:
中国では、白酒(パイチュー)を酌み交わして
人間関係が深まる。


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